一緒にやっていても、一緒にはやれていないで
昨日は、お亡くなりになったジャズ・ピアノの田中さんのお店、セントジェームスの39周年というえらい中途半端な記念ライブに行った。
メインはドラムの東原力哉でテナー、ピアノ、ベースのカルテットだった。
ピアノは女性だったが、男性的で力強く気持ちが聞こえてくるピアノだった。
あれで、もう少しタッチが良ければ音も転び、迫力もスピード感も倍増するのだが、と一緒にいった知人とボソボソ。
しかし、演奏が何かおかしいな、と感じ、その原因をグループの音から探した。
そこで改めて気付いたのが、やはり田中さんの存在だ。
グループのリーダーが不在だったのだ。
別段リーダーが必要なのではない。
リーダーを感じさせる演奏があれば、そこに回りの音はくっついて行くものだ。
しかし、そうはならなかった。
ただ、最後に田中さんのオリジナル曲を演奏した時、サウンドととして音は生きていた。
そういった偶然がなければ、こういった場合はまとまりに欠けるのだ。
しかし、もう少し根深い原因がある。
それは、リーダーを感じさせる演奏、ということで言えば、力哉のドラムは正にそれだ。
しかし、まとまらなかった。
それは、それ以外のメンバーは、それぞれが楽しんで演奏しているだけだったからだ。
それぞれがそれぞれの音を聞き、そこにアプローチしているのではなく、それぞれがそれぞれに、同じテンポ、同じキー、同じ曲を、偶然同じ時間に同じ場所で演奏していただけだからだ。
これは、何も珍しいことではない。
私が現役の時も、殆どがそんな演奏だった。
一緒にやっていたら一緒にやれているのか?
そこに疑問を持ったのだ。
だから、こういった「関係性」というところに視点が向き、探求していくことになったのだ。
もちろん、それは舞台での演技や、歌でも同じだ。
日常の生活も同じ、医療も同じだ。
そこに疑問を持たないくらい、感性が鈍りきっているのだから仕方がないが。
演奏終了後、マネージメントをボランティアでやっているベーシストと、「また俺と一輝のライブをやろか、面白くないから」