何事も人の仕組みから

カメラ・レンズを手に入れたのは、何億年前の魚の祖先にある一つの遺伝子が4つあることらしい。
何の話かというと、眼球のことだ。
多分眼球は全人類同じなのだろうが、見えているものはそれぞれに全く異なる。
もちろん、カメラ・レンズというくらいだから、眼球が異なるのではなく、それを解析する脳の働きが違うからだ。
もちろん、そこに正誤はない。
ただ異なるだけだ。
あるとすれば、レベル差はあるだろう。
錯覚を起こしてしまう現象も面白い。
脳が自動的に補完するという働きがあるから、錯覚を起こしてしまうのだろう。
つまり、自らの持つ働きが見えているものを間違って捉えさせる、いわば、免疫の誤作動、意識の二重化現象のようなものだ。
私は何かを考える時、そういった人の仕組みや機能の持つ働きから考える事にしている。
でないと、単に意識の遊びに終わってしまうからだ。
そうなると、そこに一貫性が欠け、つまり、「人」そのものとはかけ離れたものになる。
単なる言葉遊びだからだ。
それが自分としては許せないので、どれだけ時間がかかっても問題の解決は、人の仕組みや自然現象から考えることにしているのだ。
これは、伊藤一刀斎の教えに従っているだけだ。
「人の持つ機能、働きを十分に使う事が剣の妙」と記されたのを読み、それが私に響いたからだ。
しかし、どう響いたのかは分からない。
だから、それを知る為にそして確かめる為にその事を探求するしか無いのだ。
そういう探求の中で、発見したこと、現代に役に立つこと、生活に、人生に役立つことを、ワークショップや教室、また「武禅」や「明鏡塾」で伝えているのだ。
よく人は「日野さん、この本は参考になるよ」と、本を紹介してくれる。
それは有り難い事だが、私は私の力だけで、知り得た事が大事であって、本に書かれてある「重要なことだけに興味があるのではない」のだ。
つまり、切り取られた知識には全く興味が無いのだ。
その意味で、本に書いて有ることと、同じような事を伝えてはいるが、それは全部私のオリジナル、つまり、私という人生を通して獲得してきたものだから、その周辺は全て分かるという違いがあるのだ。
これを書いていて気付いた事がある。
私にとって「響いた」というのは、私の全てはその響いたこと一色になり、私を無くしてしまっているということだ。
「私」が大事だと人は言う。
だから、自分の殻に固執する。
私も「私」が大事だ。
だから、先人の知恵を借りて自分の殻を突き破る。
その選択は自由だ。
と書いていて、人は選択など出来るのだろうか?とふと思いが頭をかすめた。

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