普遍的な豊かさを手に入れる

昨日「94回武禅一の行」は終了した。
16日から台風接近ということで、ヒヤヒヤしていた。
しかし、当日まで列車運行の詳細が分からなかった。
JRには電話が繋がりにくく、どうしようもなかった。
代行バスが出るから、という情報を当てにしていたが、当日になり道路も遮断されているので無理だという。
もちろん、そういうことは分からないと言えばその通りだが、さすがJR「すみません」で済ませてしまう。
道路に関して、行政や地元のメディアに連絡をし状況を確認したが、どれもこれも埒が明かない。
仕方が無いので、通行止めと思われる近辺のタクシー会社に連絡を取り、状況を聞きタクシーをチャーターすることにした。
そういったドタバタだったが、何とか中止をせずに94回目を開始できた。
初参加の女性のコメントに
「人を呼ぶことが出来ない自分に気付きました。
何とかしようとして、声を大きくしたり、集中しようとしたが、自分が『おい』といっているだけで、自分の殻に入ってしまった~
ピラミッドの時、後ろから聞こえる声が2人のうちどちらが言っているのかさえ分からない事も多く、『自分では呼んでいるつもり』なのに、ただ自分の出来る範囲内で、必死っぽいことをやっているだけなのだ、ということを、自分の体験と人の声を聞く体験の両者を通して痛感した。
傷つきたくないとか、嫌われたくないとか、そういう枠から出られないまま、同じ枠の内でとどまろうとしていた~
日常で枠の中にいる自分に気付き、その枠からはみ出てみる。
次の『武禅』までに、その日常にチャレンジを続ける」があった。
こういう具合に気付いてくれる人も多々いるが、「武禅という方法」だと思っている人もいるのは確かだ。
その両者がワークをすると噛み合わない。
もちろん、そういう場面は毎回ある。
方法だと捉える人は、「出来た・出来ない」だけに拘る。
だから、その都度その都度、「出来るための方法」を考える。
そんな人は、必ず他人にその方法を押し付け、方法に夢中になる。
相手の人は、実はそんな人に違和感を抱き、冷ややかに見ているのだが、もちろん、そのことを表には出さない。
「相手のいうことを聞いているように」見せる。
そんなやりとりを、見ているだけで面白い。
それが現実の日常だからだ。
噛み合っていない、つまり、上っ面の関係でさえ成立していないのだが、そのことには余程の事が無いと気付かないのだ。
成立しているように見えるのは、そこに状況や立場、目的があるから、その事が、生身の人間同士の関係ということを、覆い隠しているからだ。
状況や立場、目的を取っ払った時、本当に関係できているのかいないのかが見えてくるのだ。
よく言われるように、定年退職した時、自分自身の価値が分かる。
つまり、状況や立場が無くなった時に、生身の人間になった時にしか、自分の人間的実力には気付かないということだ。
社会とはそういうものである。
「武禅」は正にこの状況や立場を取っ払った場である。
生身の人間としての能力を目覚めさせる場なのだ。
だから、このレポートの女性のように、「人を呼ぶことが出来ない自分」という、関係における基本的なことさえままならない、というようなことに気付けるのだ。
生身の人間に戻るというのは、社会の流れとは全く異なった価値観、つまり、人としての普遍的な豊かさを手に入れるということである。

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