触れる・見る・聞く・話す

昨日帰国した。
早々に東京教室での稽古で、疲れを倍増させ時差ボケに備えた。
その方法が今朝8時迄寝かせてくれた。
押切さんから、認知症に関するフランス人の取り組みの情報を貰った。
私がバレンシアに行っている間に、テレビで紹介されていたそうだ。
まるで「明鏡塾」のような中身だそうだ。
「見つめる・話しかける・触れる・立つこと」という4本柱で作られているからだ。
「ユマ二チュード」という名だ。
もちろん、こちらが意図する「見る・話す・触れる」ではなく、もう少し前段階のものだ。
例えば「見る」とした時、自分が見ているのか、相手を見ているのか、という差がある。
もちろん、具体的には「自分が」見ているには違いない。
しかし、相手を見るというのは、完全に「相手の反応が見えている」という違いだ。
分からない人にとっては、屁理屈に思えるだろうが、生身の人間にはこの違いがリアルに感じ取られ分かるのだ。
ここは文化の違いなのだろうと推測する。
日本に残る「察する」という言葉は、フランスにとっても諸外国にとっても、意味不明なものだ。
もちろん、現代に至っては日本でも意味不明な人が多い事と思う。
それほど、言葉での説明、説明のつくこと至上主義になっているということでもある。
もちろん、「察する」という言葉の意味云々のことではなく、その状態のことだ。
軽く言えば、俗にいう「空気が読めない」が、察することが出来ないになるだろう。
何を受信しようとして受信しているのかではなく、既に潜在的に目的があり、そこにある「違和感」を感じ取り、その事が判断を通り越し、その場に応じた行為に変換される。
そのことを「察する」というのだ。
その呼応は「阿吽の呼吸」とも重なる。
何年前になるだろうか、ビジネスと呼ばれる世界でベストセラーになった本に「7つの習慣」があった。
その本を読んで、「何のこっちゃ」と思った。
それは日本人なら誰でも持っている能力を説明しているだけだったからだ。
しかし、多くのビジネスマンが飛びつき、こぞってセミナーに行っていた。
結局のところ、日本人なら誰でも持っていると私が思っていた事は、それを自覚し発現する訓練をしたものにしか現れないということに、気付かせて貰ったようなものだった。
だからもちろん、ユマ二チュードが駄目だと言っているのではない。
こういった試みがどんどん行われていくことが、認知症の方達に対する光明になるから、そうならなければいけないということだ。
日本人がここを鋭く突っ込めたなら、相当効果を出すだろうという話だ。
その意味でも「明鏡塾」は、先駆的な塾だと自負できた。
バレンシアへ出発前の慌ただしい時に、相談が寄せられた。
脳梗塞になった人にどう働きかけるのが良いのか、というものだ。
一番大事なことは、意思を持たせる事だ。
それさえあれば、自発的に働く身体になる。
そのようなアドバイスをした。
それが「聞く」としての結果である。
今日、事後報告を聞くと、言葉を発するようになり、手も動くという。
右足には麻痺が残っているそうだが、意思がそれを解決していく。
その補助としてのリハビリは必要だが、リハビリが先に、ではない。
相談して来たのが医師なので、そこは良く理解してくれた。
大事なのは、どんなことでも本人の意思であり感覚だ。
そこをどう誘導させる事が出来るか。
その為の「触れる・見る・聞く・話す」なのだ。

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