何を見ているの

数十年前からずっと疑問に思っている事があり、常々そのことを確かめている。
それは「一体私は何を見ているのか」だ。
見る、あるいは、見ようという意識なり欲求なりが働いた時は、その目的のものを見ているには違いない。
しかし、例えば分り易くショーケースの中に有るコップを「良いデザインだな」と思って見た場合、そのデザインを見ている。
が、しかし、本当のデザインしか見ていないのか?となると、その奥行は分からない。
デザインしか見ていない、という判断はその通りなのだが、自動的な働きとしての「目」は、もっと多くの事を同時に捉えている筈だ。
というよりも、「目」というレンズは、その方向の全てを写し取っている筈だ。
その全てを写し取っているという中に、デザインという絞り込みがあるだけだ。
そんな事を考えながら街を歩いている。
そんな時、見るとうことではなく「何が写っているのか」を探す方が面白い事に気付いた。
これは、言語化しない、つまり、判断しない、既成の枠ぎめをしない、ということの訓練の一環でもある。
文字を見て「読まない」というのは至難の業だ。
一体それが何の役に立つのか?と、意味に対する固定観念が自動的に働く。
これまた二重に面白い。
何時になったら、その固定観念から抜け出せるのか。
死ぬまでに間に合うのか。
何とか並列にしか出てこない言葉が立体的にならないものかと考える。
つまり、時間を立体化出来ないものか、そしてそれを具体化出来ないものか。
それは数十年前から考えている事だ。

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