とにかくやり続ける
日常体験の少ない人、と書くのはおかしなことなのだが、例えば、人と余り顔を合さない人は、人と言葉を交わすのが苦手になる。
というような日常体験の話だ。
こういう人は、「どうしたら言葉を交わすのが苦手でなくなるのか」あるいは「挨拶が苦手でなくなるのか」と思うらしい。
らしい、というのは、そもそも「思う」ということが私には分からないからだ。
どういうことかというと、それは「思う」ことでも「考える」ことでもなく、やれないのなら「やり続ける」ことだからだ。
やり続けたら慣れていく、ただそれだけの事だからだ。
思ったり考えたりするということは、大事なことには違いないが、行動することでクリアすることも大事だ。
むしろ、そちらの方が大事だ。
例えば、ここでいう「日常体験が少ないから」という場合は、どんどんやり続けることで慣れ、そのことが意識的では無くなった時、自動的に「苦手を克服」していることになる。
そして、人と関わるのが楽しくなっている自分がそこにあるのだ。
しかし、それを「どうして」と思ったり考えたりすることで、逆に意識的な時間をたくさん作ることになり、それが自分自身の壁となり、いつまでたっても苦手を克服することは出来ないのだ。
こういった場合の、思う考えるというのは、結局のところ「やらないですむ為の言い訳」に過ぎないのだ。
あるいは、理屈の為の理屈を並べ、苦手な自分を正当化しているに過ぎない。
いくら自分を正当化しても、そこにある自分自身は「苦手な自分」であり、そのことが自分の行動半径を狭くしている自分なのだ。
もちろん、言葉だけを取り出して、それもあなたの自由ですよ、という言い方はある。
しかし、そんなことを言ったところで、何ら生産的なことはないし、言うだけ時間の無駄だ。
とにかくやってみれば良い。
そしてそれを無条件に続ければ良い。
何も考えずに誰にでも挨拶出来る自分になった時、苦手は無くなっているのだから。
自転車に乗りたければ、乗れるまで練習すれば良い。
そこにやたらと合理的な方法を持ち込んでは駄目だ。
それをすることで、乗れた時の喜びが半減するからだし、工夫をする能力、忍耐力も身に付かないからだ。
どんなことでも、それと同じだ。
思う暇があればやれ、考える暇があるならやれ。
人生これだけだ。