木を見て森を見ないのは
全体というのは、例えば、大きく宇宙という全体、銀河系という全体、太陽系という全体、地球という全体、日本という全体、そして地方、地域となる。
という構造を持っている。
木を見て森を見ないというのは、これらの構造のことを認識していない、ということだ。
当たり前の事だが、全体と部分といった時、また木と森といった時、そこに共通する要素、あるいは、共通する切り口や思想がある。
何やら大層な話のようだが、武道での一つの型、一つの技を考えたり実際的に稽古を行う時のものだ。
ややこしいのは「技術習得」というところだ。
例えば、一つの型や型の流れが出来なければ、それを分解して部分に分けて取り組む。
その部分も出来なければ、それを分解されたもの、ということになる。
そこには、単純に身体運動としての部分もあれば、要素としての部分もある。
要素は「三角形」や「応点」だ。
それらを取り出し、その要素を稽古する為の簡単な身体運動を用いなければ要素に集中できない。
そういった事の繰り返し、つまり、一つの型があり、それがざっくりと出来れば、そのパーツを取り出す。
そして要素を確認する稽古、その後また型に戻る。
その事で、「何が出来ていないか」にそれぞれが気付く。
それが私の教室の稽古だ。
その意味では、やることがめまぐるしく変わって行く場合もある。
それはそれぞれがやるべき、一人稽古が足りなかったり、核としての身体運動を思い込みでやっていたり、が有った場合だ。
それは個人個人の問題なので、それをすっ飛ばしてその時やろうとしている要素を、どうすれば理解できるかを考えるから、やることがめまぐるしく変わるのだ。
全体と部分は、最終的には部分としての個人の身体運動ということになる。
単純には「身体塾」で行う胸骨操作であり縦系の連動、あるいはねじれの連動、肘や膝の抜け他である。
これらが身体運動の核になるが、そこに「その身体運動で起こる刺激の知覚」という日野武道研究所独自の視点が入る。
その意味で、その事に取り組む為には相当な根気と情熱が必要だ。
それが生徒の数が少ない原因だ。
もちろん、この核になる身体運動が簡単なのではない。
核になるものだから、全体が出来上がる難しさと同等の難しさがある。
しかし、その難しさは「刺激の知覚」ということとの兼ね合いになる。
知覚するという能力が高まるほどに難しくなり、その能力が低ければ、あるいは、そちらに興味が向かなければ全体の完成度も低くなるというものだ。
言葉として、日野武道研究所の稽古内容を捉えればこうなるが、実際は武道と縁の無い女性も、主婦も楽しく汗を流し、それなりに理解し何かしら出来るようになっている。
稽古の中での、どこか一つを取り出せば、男性で10年以上来ている人よりも主婦や女性の方が出来る事があるから面白いのだ。
あるいは、20年来ている人より先に出来る事がある。
つまり、頭と身体を同時に使うのが稽古なのだが、身体運動を稽古だと思い込んでいる人は、ある時点から前には進まないのだ。
相手の力と衝突しない、させない、というのは、本当に難しい。
それは自分自身が生きて来ている、あるいは、生き方と完全にリンクしていることだからだ。
当たり前の事だが、運動を管理しているのは自分自身の意識そのものだからだ。