何でやねん?から、ほんまかいな?

「何でやねん」は得てして面白い発見に繋がる事が多い。
大方が真逆の意見だからだ。
よく言われる「コップに水が半分入っているとすると、半分しか入っていないのか、半分も入っているのか」という視点の違いと似ている。
が、根本的に違うのは、そういった例が出されると「そんなもの状況によってどうとでも言えるやんけ。大体そんな陳腐な例で例えられるような人間はいない。もっと多角的だ」と、とりあえずぶっ壊してしまうのだ。
その後、その例が私の頭の片隅に残っていれば、それを咀嚼しもう少し深い意味を含んだものにしたりする。
格闘技の人達と知り合うようになり、そのトレーニングに対して「何で?」と問うと、余り明確な答えが帰ってこない事が多い。
であれば、と直ぐに考えてしまうが、もちろん、その答えが正しいのか間違っているのかは分からない。
スタミナや精神力を付ける為に走る、というのもある。
これも門外漢の私には分からないが、多くのスポーツに共通しているから、当たらずとも遠からずなのだろう。
であれば、もっと他に有効な方法は無いのか?とまた考える。
そんな事の実験が武道の稽古だった。
ここには、何でやねん、ではなく「ほんまかいな」だ。
本当に転げるの、本当に突けるの、本当に斬れるの、本当に避けれるの、というような疑問だ。
そんな事を約束組手を通して試していく。
だから、約束組手は、「何を稽古するのか」の為にあるひな形のようなものだ。

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