天邪鬼な私
改めて考えることは面白い。
同じ言葉でも10年前には「こうだと理解していた」ことが「いやこうなのかもしれない」となることが往々にしてあるからだ。
10年前の理解度が浅かったのか、10年後の今が深くなった、あるいは広くなったのかは分からないが違っている。
そういったことに気付くことがまた楽しい。
それは自分自身の時間の経過を知る事になるからだ。
同時にそれは、身体の動きそのものの変化でもある。
自分自身のやっていること、私で言えば武道の体術が微妙に変化しているのは分からない。
しかし、長年受けを取ってくれる人がいれば、その人を通して知ることが出来る。
それを知ることで、自分の言葉が変化していることに気付くのだ。
そういった、全ての相互関係、つまり、立体的に自分を眺めて見る事が大事だと、これまた改めて思う。
バランスの取れた人、という言い方があるが、そんな人がいるのか?と思う。
というのは、アンバランスだからこそ、バランスを取ろうとその立体のどこかが常に変化しているからだ。
一般的には、バランスの良い人を見た「その人」個人が「バランスの良い人」と思っただけであって、バランスの良い人がそこにいたということではない。
私の口癖の一つに「誰が言ったんや・何でやねん」がある。
その口癖が、そんなことを考えつかせてくれる。
「言っているお前は何やねん、もしかしたら世界で一番自分は正しい、正確だと思っているのだろう」と。
その言葉は、世に出回っている言葉や、常識観等々にことごとくその言葉を向けてしまう。
何故か向けてしまうのだ。
人はそれを天邪鬼という。
多分私はそうなのだろう。
その性分でジャズや武道を渡ってきている。
だから、波風が立つ。
しかし、この歳になると私の口癖は、どこに向かっているのか、と気にはなる。
単にへそ曲がり、根性が曲がっているという性癖が、そうさせているのか。
あるいは、今は分からないが明確な的が有るのか。
そんな事も考えてしまうのが、また自分自身を豊かにしてくれるので楽しい。