人生は冒険だ

観察力の鋭い人と鈍い人、こればかりは、自分自身の好奇心とか目的とかに関わることだから、外からはどうすることも出来ない。
結局のところ、武道にしろ治療にろ、舞台にしろ、一番重要な所は接点、相手との接点である。
動いていることは、誰の目にも見えるが、実際に相手に作用している、相手との接点を見抜く人は少ない。
また、そこに想像力を働かせる人も少ない。
武道歴40年、50年の人であっても、全く分かっていない人も多い。
ここが見える(関係性が見える)観察力が、それらに取り組む人にとって重要な要素だ。
見えないということは出来ないからだ。
「武禅」でも教室でも、こういった見える人には見えるが見えない人には見えないところを稽古する。
初心者の人は「分かりません」と答える事が多い。
もちろん、分からないだろうが、どれだけ見える人の発言をヒントに、見る為の工夫をしたのか、というと、おそらく皆無だろうとそれこそ見える。
「わたし」という枠や他人から学ぶという習慣が付いていない事が邪魔をするのだ。
こういった場合、見える人の発言の中に、「それなら自分にも分かる」事があったりするのだが、頭から「分からない」と閉ざしてしまっている「わたし」には、そういった有力な情報も入って来ないし受け取れない。
その時点で、場に関係していないという事なのだが。
鵜の目鷹の目という言葉があるが、自分がこうしようと思ったことに対しては、これでなければならない。
というよりも、そうなる筈なのだ。
見え難いことだから、たとえ見えたとしても、それが正解の見え方なのかそうでないのかはまた難しい。
大方が振り回されるのは、例えば「声を届ける」だとしたら、「声がここで落ちています」とか言われることだし、そう見えた人だ。
もちろん、そう見える。
しかし、その事が最終地点ではないのだが、そう見えた人は見えない人よりも見えるから、これで良いと思ってしまう、思い込んでしまう事だ。
それが伝家の宝刀のようになるのだ。
しかし、「声がここで落ちています」という視点が、自分にどう役に立つのか、なのだ。
自分はそれを一つの物差しとして「声を届けられるようになるのか」なのだ。
自分に適応出来ないものの見方など、たとえそれが正しくても、全く意味が無い。
そういう場合は、往々にして、大きな声や勢いのある声になった時、「届きました」という事になるが、それが届いたのではない、という頭の切り替えが出来なくなるし、出来ない、したくない(見えるという事に価値を置いておきたいから)。
ということに繋がってしまうこともあるのだ。

ういった複雑な思考や思いを持つのが人であり自分だ。
そこにどう気付き、自分を成長させることが出来るか。
つまり、余計な情報に振り回されない自分を形成できるか。
大きな冒険だ。

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