身体の事は身体を通して
「20年ぶりくらいに膝が有る」これは、理学療法士をしている尾森くんの今日の日記タイトルである。http://ameblo.jp/ryo813529/entry-12011583939.html
何でも20年前内臓疾患を経て、寝たきり状態から歩けるようになってからの話だそうだ。
その患者さんがフラフラとしか歩けないのを観察していて、「膝」を分かっていない事に気付き、患者さん自らが自分の膝を実感できるようにリハビリをし、結果、患者さんから「20年ぶりくらいに膝が有る」と大喜びされたのだ。
これは、この患者さんだけの問題ではない。
では大方の人は自分の「膝」を、あるいは「肘」を「有る」と実感出来ているのか、という問題だ。
もしかしたら、ここ30数年指導をしていて、身体の重要な部位を認識し使えるようにしたのは、3人くらいしかいないかもしれない。
武道の稽古でも、ワークショップでも「肘や、膝や」と口を酸っぱくなるくらい言う。
しかし、殆どの人が「分かります」という程度で、全く分かっていない。
それは、身体の動きを見ていると一目瞭然である。
私達は、その患者さんのようや、身体的ハンディを抱えてはいない。
その意味で健康体だ。
だからといって、身体をこの患者さんのように「有る」という、実感があるのではない。
「有る」が無いのだから、高度な身体操作は出来る筈もない。
自分の出来る範囲の運動は出来るが、それ以上は無理なのだ。
そこにある落とし穴は「身体が動ける事」にある。
つまり、自分の身体が動き、例えば、ダンス、例えばお芝居、例えば武道にとって損小が無いと、どこかで感じているか思っているのだ。
だから、当然この患者さんのような喜びも無ければ、目的も無い。
現時点の「出来る・動く」ということが、自分自身への探求を妨げるのだ。
だが、それはいたしかたないと思う。
それぞれの人の持つ目的や欲求がそれぞれだからだ。
3人位という一人は、遺伝子の博士、一人はオリンピックの選手、一人は競輪の選手だ。
この3人とは身体の話を身体を通して出来るが、殆どは身体の話を言葉で出来るだけだ。
しかし、尾森君が患者さんは「膝」を分かっていないのではないか、と着目したというのが凄い。
もちろん、それに気付き、普通の人のように歩けるようにした、という技術も凄い。