10の失敗より1,000の失敗

極論で言えば、10の失敗で見つけた正解よりも1,000の失敗で見つけた正解の方が、より本質的である。
例えば、字を上手に書けるようになるまでは、下手くそだということだ。
その下手くその時に、「間違っている」と決定する必要も、「ああ、自分は駄目だ」と落胆する必要もない。
必要なことは、常に「では、どうするか」だけである。
また、自分が取り組んでいる事のレベルが高ければ高いほど、例えば、先程の「字を上手に」にしても、人間国宝級の書家の方の字を、上手な字として目指すとすれば、10年20年、あるいは、それ以上の期間は下手くそな字である。
しかし、他人が読める程度の上手な字であれば、数時間か数日の下手くそな字ですむ。
が、何れにしても「その場」で出来る事ではなく、過程という時間が必要だ。
つまり、下手くそな字は何度も何度も繰り返し練習するしか、上手な字を書けるようになることは無いということである。
そういった当たり前の事を無視した考え方を持っている人が多いのには驚く。
目指しているレベルが低いのか、目指しているものが無いのか。
目指さなくても出来ると思っていたのか。
立ち居振る舞いの美しい人を見ていると気持ちが良い。
しかし、その立ち居振る舞いの美しい人は、きっと厳しい躾の中で育ったのだと、容易に想像できる。
日常の当たり前にある姿にしても、そういった過程を踏んでいる人を見付けるのは現代では簡単だ。
過程を踏んでいない人が多いから目立つからだ。
「胸骨を引き上げたら、姿勢は美しく見えるよ」と、ワークショップで教えると、その場では「うわーほんと」と歓声が上る。
しかし、それで終わりだ。
「続けたら出来ると思うのですが、続けられなくて」と後日大方の人は言う。
つまり、幼児や子供の時期に、あるいは、学生時代に目指したもの、強制的に目指さされたものを持つ人は、続ける事が習慣化されているが、そうでない人は「続けられなくて」で、自分を終わらせてしまうのだ。
そのくせ「その場」で大方の事は出来ると思っている。
もちろん、その人のレベルで出来る事は出来るからだ。
しかし、レベルが変わるとそうはいかない。
しかし、レベルが違う、という事も分からない人も多い。
即席万能、How toで行ける世の中というのは、そういった人を生み出すことに貢献しているのだ。
可哀想に、と思うのは歳だからかな。

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