判断している限り、相手は幻だ。
この「どうして自分の意識が自分の邪魔をしているのか、という話になった。」という中に役者も混じっていた。
役者の話を聞いていると、演技や芝居の理論が整然とある。
しかし、よくよく聞いていると、音楽理論と同じで「それを具体化する方法は無い」のだ。
あくまでも理論であって、現実に芝居をしている事と紙一枚の差で離れている。
もちろん、理論が間違っているのではない。
そして、それに則ってとされる演技も間違ってはいないのだろう。
ただ、舞台を見ていると台詞だと分かるし、動きも作られたものだと分かる(もちろん幼稚なレベルの話ではない)。
そこを越えてしまうのが演技の力、演出の力の筈だ。
では、何が欠けているのか。
舞台のどこを探しても、生身の人間がいない事だ。
舞台上のホント、芝居のホント、物語のホントが無いのだ。
血も汗も涙も、つまり、感情など全くないということだ。
あるのは「〜のようなこと」と「思い」だけだ。
この紙一枚の壁は本当に分厚い。
どんな武器を持ってきても破れない壁だからだ。
理論から舞台を作るのではなく、舞台から理論を作り直す、という作業が必要だ。
現場主義ではないが、舞台という現場が現場ではなく、稽古場やスタジオのままなのだ。
これは「武禅」でのワークの中にある「こんにちは」を相手に届けるが、何故出来ないのか、というところからの話である。
自分の頭での判断という作業が「こんにちは」を発しているから、相手に届くはずもない。
つまり、頭での判断の中には、自分の対象としての相手がいないということだ。
リアルに「この人に」という意識も認識も欲求も無く、全て思い込みが作り出した幻影なのだ。
頭の中で自己完結しているのだから、相手に届くはずなど有り得ないのだ。
つまり、自分が紙一枚の壁を作り出しているということである。