またまた言葉
先日の友人が「晃、お前は分からんわ」と言う。
私も「アホか、俺にも分からんわ」と返す。
友人の「分からんわ」というのは、友人自身の持つ価値観に当てはまらない、あるいは、自分の知識の範疇にない、という意味である。
私の言う「分からんわ」は、意味があって、意味を持って行動しているのではないからだ。
もちろん、結果としての表れを意味づけすることは出来るが、そんなものをしたところで意味は無い。
現れそのものだけで良いからだ。
敢えていうならば「やりたいからやった」でしかないが、そのやりたいという言葉も意志もない。
そうしただけである。
大方のやりとりは、友人の「分からない」という相互関係だ。
しかし、中には他人を「よく分かる」という人もいる。
超能力者か神に近い人だ。
どうして分かりたいのか、分かってどうするのか、不思議でならない。
もちろん、人を理解することと、人が行う技術を理解することは別だ。
人が行う技術を見ると、粗方何を考えてそうなっているのかは分かる。
そこから、この人はこういう人ではないか、と推論する事は出来る。
しかし、あくまでも推論であって、そのものではない。
その意味から言うと、精神分析等は被験者の言葉から行う。
それは神技に等しい。
言葉など本人が自覚的でなくても嘘を言っていることがあるし、本人が誤解してしまっていることもある。
また間違って使っている事もある。
それをまず見抜かなければならない。
だから神技だというのだ。
そんな事は学校で習うことは出来ない。
「明鏡塾」では、「患者の言葉は適当に聞けば良い」と教える。
そこにはそういった背景を人は持っているからだ。
それよりも、身体を観察することで、治療マネージメントをしっかり作ればよい。
しかし、これも仮説である。
そういった意味で、全ては闇の中だということだ。
たとえ良い結果が出たところで、それは「こうしたから、こなった」のではない。
「こうなった」がそこに有るだけだ。
そこまでシビアに物事を見つめなければ駄目である。