技術より自分を

「明鏡塾」でも「武禅」でも、その他私が色々な人に提示しているのは、例えば、武道の技、人間関係の技術、治療の技術、という技術や技ではない。
武道で言えば、技というのは枝葉末節という捉え方を、私はしている。
自分自身が、変化に即応できる様になれば、そこには相手がこうしたからこうするという、対処療法的な考え方はいらなくなる。
その自分を作っていく、ということが目的である。
だから、例えば人間関係の技術、なるものが、巷には色々あるが、そうではなく、自分自身の殻が無くなれば、自然と関係など良くなるものだ。
技術と言った時、その自分を横においたままの状態で、自分の上に積んでいくということだ。
スマートな洋服があり、それを着る為には体重を数キロ落とさなければ駄目だとする。
体重をそのままにして、どうすればこの服を着ることが出来るかが、大方の人の技術の捉え方である。
それは楽で良い。
一番難しい自分との向き合いをしなくても済むからだ。
しかし、生きているのは紛れも無く自分である。
その自分が社会を人生を、人と共に生きるのだ。
「人間関係が苦手なのです」という言葉を平然と吐くのにはあんぐりする。
「どこで生きているの?」と問いたくなる。
苦手も得意も無い。
そんな言葉が必要な世界ではない。
自分自身の持つ他人への偏見や、固定観念が「人間関係が苦手なのです」を作っているだけだ。
苦手だとしているから、普段の日常生活でも人を避ける。
それは、人を避けるという行動を、自分自身が習慣として定着させているということになる。
自分が自分を閉じ込めていく、という笑うに笑えない生き方をしているということだ。
そこを突破するのは簡単だ。
だが、それを引き戻す自分自身が最強の敵だ。
「でも」という言葉を癖として持っている人。
その言葉を持っている限り、自分の殻は破れない。
逆に言えば、その言葉を葬り去ればよいだけということである。
日々の会話で、独り言でその言葉に気づき、修正していけば良いだけだ。
そうすると、不思議と自分の周りが変化していくことになる。
自分の殻が少し破れたからである。

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