火傷を知らないければ

3月「武禅」の申し込みを受付始めた。
何時ものことながら、数ヶ月前から問い合わせが来る。
それだけ、真剣に自分の事を考えてくれる人がおり、方法ではどうにもならない事に気付いた人が居ることが嬉しい。
どんなことでも百花繚乱の如く方法が溢れている。
もちろん、方法を知ることで出来る事も山ほどある。
それぞれのあるレベルの人には、知ることで出来る事も沢山ある。
しかし、いくら知っても自分が自分に取り組まない限り無理な事も沢山ある。
それの一つが、こころを開いたり、開かせたり、こころを通わせたりという、人間関係にとって核になるところだ。
それこそ、ここは相互の関係性によって左右されるものだからでもある。
相互に影響しあうというのは、何ともやっかいなものだ。
だからマニュアルを作ることなど出来ないし、マニュアルになるとそれこそ違和感が発生してしまう。
そういったことも、知識で知ったところで実際には何の役にも立たない。
火は熱い、火傷するよ、とガスコンロのような絵なり動画を見て知ったところで、まず、火傷を知らなければ何も分からないし、それ以外の火傷をするようなものには応用が効かない。
結局何のことだか分からないのだ。
人との関わり、自分自身の事。
これらは、人と真正面から向き合うという実際を通してしか、本当の自分自身の心の動きや、自分の癖になっている言葉が出てこないものだ。
だから、一人でこっそり勉強して、と言うことが出来ない。
もちろん、「武禅」を知識の一つだと捉える勘違いした人もいる。
何時も書いている「知った→出来る」という勘違いである。
もちろん、裸になるのが、あるいは、裸を見せるのが怖いのだろうが、それすらも勘違いであり、自分の先入観、固定観念だ。
こころを開いたところで、自分にダメージなど受ける筈もない。
逆に、その事が他人のこころを自然と開くという、宝物のようなものだ。
どんな人にとっても、大事なことなのだ。
ただ、時間がかかる。
こころを開くということに対しての、自分自身の先入観や固定観念を壊さなければならないからだ。
思い込みとはやっかなものだ。
もう一つ、自分に殻があること、そしてそれが自分の成長の邪魔をしていることを知らない人もいる。
それは、そのことを実感出来なければいけない。
火傷を知らなければ、火傷って何かはわからないのと同じである。
第93回「武禅一の行」3月20,21,22日

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