遊ぶ、この自立した行為

「独楽を回して遊びましょう」と子供の頃は無邪気に歌っていたと記憶する。
しかし、独楽を回すのは難しい。
一人で回す分にはさほどの工夫はいらないが、競争となると工夫合戦になる。
芯を石の上で滑らかになるように研ぐ。
あるいは、独楽の本体と芯との上下バランスを変える等々。
子供ながらに工夫をし、誰よりも長く回り続けるようにするのだ。
もちろん、それらは年長者がやることを真似る、というところから始まる。
それに飽きたら、独楽を手で受けての鬼ごっこだ。
こうなると、一寸やそっとでは仲間に入る事はできない。
手で受けることが出来ないからだ。
仕方なく独楽を地面で回し、それを下敷きですくい取る。
カッコ悪いが仕方がない。
そうしなければ、仲間に入れてもらえない。
皆で遊べないのだ。
だから、一人で練習をして何とか手で受け取れるようになろうとした。
その時代、皆と遊ぶ為には、それなりの工夫と努力、あるいは勇気が必要だった。
今では「危ないからやっては駄目ですよ」と言われるようなことが、遊びの主流だったから、勇気も必要要素として付いてくるのだ。
学校の勉強よりも、遊ぶということが大事だった。
というよりも、遊びそのものが生きている目的だったかもしれない。
この頃の遊ぶは、正しく自分という主体が行っている行為だ。
自分が生きていたのだ。
学校の規則も、家の躾も、誰かに言われる事ではなく、自分が自分の稚拙な力で考え、それを行動し、その結果を全部自分が受け止める。
失敗すれば転ぶ、怪我をする、あるいは、途方に暮れる。
全部自分だ。
その自覚も意識も無かったと思うが、どんな状況になっても時間が経てば楽しかったに変化していた。
それを考えると、既に自立していたといえるだろう。
そこには、義務も〜の為という大義名分も一切ない。
そういった人工的な発想や、既成の価値観を持たないのが子供だ。
そう遊んできた子供の時代。
それが今の自分の方向性を決めているのだろうとつくづく思う。

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