クリスマス・イブとは関係ないが
今日はクリスマス・イブ。
と、昨年も書いたかな?
このところ、作家であり療術可でもある押切さんと話をすることが多い。
おかげで、頭を刺激され忘れていたことや、自分の頭の隙間を埋めるという作業が出来ている。
大体が、過ぎたことは忘れてしまう性質だ。
そこに輪をかけるのが、前にしか進まないという性質があるからだ。
道を歩いていても、同じ道を通るのが嫌いなのだ。
それが幸いすることもあれば、災いすることもある。
結果としてのそれらは、私にとってはどちらでも良いし、余り興味は無い。
その押切さんとの話の中で「実は、最終的にはホスピスのような施設を建てたいと思っている」を思い出した。
海の音が聞こえる山の中が理想だとも。
そう言ったことを思うようになったのは、死にゆく人と数多く関わるという時期があった時だ。
それは武道を探求する上で必要だったことだと、その時期思っていた。
実際、どれだけの言葉を費やしたところで、生死を賭けた戦いの中で生まれてきた武術を、理解も実現も出来る筈もない。
戦争を体験している人達なら、生死ということがリアルに隣にあっただろうが、戦後世代の私には想像の産物でしかない。
そういったリアリティの無い生活の中で、術の再現など有り得ない。
そんな事は、武道探求の入り口で分かっていた。
だから私は、そういった人達と触れ合えるのは、大げさに言えば神からの贈り物だと解釈している。
そういった体験が「正面向い合い」や「声を届ける」「心に触れる」という武禅一の行を生み出したのだ。
これらは武道の要素でもあるが、人としての当たり前のことだ。
そんな事を少しでも感じてもらい、人生を見なおしたり豊かにするキッカケになればというのが、そもそもの動機だ。
また、私自身が生来的に腰が悪い、ということもあり、医者や療術者にかかることもあった。
そういう場で、「これでは治らないわ」と感じることが多々あった。
医療の現場、療術の現場には、先程の「正面向い合い」や「声を届ける」というような、当たり前の事がなく、施術に必要な記号しか発せられていないのだ。
であれば、ということで昨年「明鏡塾」という、療術者や医療関係者向けのワークを起ち上げた。
しかし、私自身のヨーロッパでの活動が増えすぎ、日程調整が思うようにいかず、自然消滅的状態になっていた。
それを来月2月11日から再開することにした。
時間は止まってはくれない。
同じように病気で苦しむ人も待ってはくれない。
そんな話が、押切さんとの間で交わされたので、「直ぐに始めよう」ということになったのだ。
「明鏡塾」 http://realcontact.jimdo.com/