やってみたら分かることがある
先日の大阪の忘年会で「自分で何か検証しているか?」となった。
胸骨操作が腕や足に繋がるから、ということで胸骨操作が出来るように稽古をする。
しかし、胸骨操作は全ての動きの核になる。
もちろん、歩くも同じだ。
一番弟子の科学者は、その胸骨を使って海外であった学会の時、時間が余ったので隣の村まで歩いたそうだ。
胸骨を使って、ということを確認したかったそうだ。
約50㎞歩いたという。
結果、足腰の疲れが全く違ったそうだ。
科学者は直ぐに検証をする。
それだけの距離を歩けば、色々と分かることが有る。
精密になるということだ。
そして「胸骨操作」は、確かに役に立つ、と身を持って証明したのだから、自分自身の確信が生まれる。
ということは、誰かに「胸骨操作」は素晴らしいよと、自分の言葉で語れるということだ。
しかし、教室に来る人やワークショップに来る人で、そういった人を見たことが無い。
自分で検証しないという意味は理解できない。
習ったからそれで良い、ということなのだろうか?
歩くということで言えば、私は「胸骨」だろうと仮説を立てた時、ナンバと大阪駅を何度も往復して試してみた。
それが正しいかどうかなど、実際やってみなければ分からないからだ。
つまり、言葉を自分の力で自分のものにしていくという作業が、技術を身に付けるということそのものなのだ。
もちろん、未だに歩く時は、体重移動や胸骨、腕の振り、多くの事を検証し続けている。
教室だけでいくら稽古しても「ただやっているだけ」に過ぎない。
その事だけが「出来る」を目指しているに過ぎない。
となると、きっと自分自身に寿命が来ても、その事は何も出来ていないし、本当にそうだったのかどうかも分からない。
つまり、自分で獲得しなければ教室に通って楽しかった、というカラオケのノリと変わらないということだ。
もちろん、それで良いのだ、という人にとってはそれで良い。
「技」を身に付けたいのではないからだ。