分からないことを一生懸命?
その昔、私が子供の頃、算数の問題が分からなくて、立ち往生した。
先生が「これはこうで、こうなるやろ、そしたらこうや」と教えてくれた時は分かるが、いざ一人でやるとさっぱり分からない。
むろん、この前提には「こんなもん全く興味もない」という私自身の姿勢があった。
やる気もなければ、何もない。
学校へ行かなければならない、と親から言われるから行く。
そんな姿勢だから、学校でやることなど楽しめる筈もない。
この立ち往生を振り返った時、分からないのに一生懸命分かろうとしていた自分がある。
分からないことは分からない、とは分かっていなかったのだ。
分からなければ、分かるようにする、その頭が算数では働かなかったのだ。
学校をサボり、近くにある、といっても数キロ離れたところだが、そこに池があり大人たちが楽しそうにボートに乗っていた。
それを見て「乗りたい」と思った。
1時間100円とか、あるいは、もう一寸安かったか覚えていないが、とにかくボートに乗った。
しかし、何も知らないからボートを動かすことも出来ない。
大人たちがボートを漕いでいる様子を観察し、いわゆる見よう見まねでボートを操った。
何日間かその池に通い、ボートを大人並みに操れる様になった。
実は、この時「分からないければ、分かるようにする」を自動的に、無意識的に行っていたのだ。
だから、ボートを操れるようになったのだが、そこは子供で無自覚だから、そのことを応用することは出来ない。
と考えると、分からなければ分かるようにすれば良い、という一つの考え方を知ると知らないとでは、大きな開きになるということだ。
愚息が算数で立ち往生していたのを見て、そんな事を思い出した事があった。
多分、大方の人が分からないことに遭遇した時、分からないことを一生懸命するのではないか、と思った。
分からなければ分かるようにする、つまり、それはどうすれば良いのか考えろ、ということなのだが、それをせずに「分からないことを一生懸命にする」を選んでしまう。
答えとしては、分からないことの構造を知る、ということが大事なのだ。
算数なら、一つ前に戻る、それでも分からなければ、また一つ戻る。
結局小学1年生まで戻っても良いのだ。
自分が分からないのであれば、自分として分かる、というところまで戻る。
それが自分の力をつけることだ。
そこに恥も外聞もない。
人生そんなことばかりなのだが、自分の自意識が自分の成長を遮っていることもあるのだ。