身体は自分でありながら、実は極めて遠い存在なのである
●昨年に続き、二度目になる大阪での講演会です。
「人生を生き抜く智慧・達人の真髄はコロンブスの卵だ」
笑いますよ!
10月26日
http://ilt.jp/extra01/entry.html
教室で指示されたことが出来ない人達を観察していると、意外な事が見えてくる。
もちろん、その人達はやろうとしているが出来ないのであって、やる気が無いのではない。
指示したこと(例えば腕を放る)を聞くし手本を見る。
そして自分で取り組むのだ。
そこまでは、別段普通だ。
出来ないから、一生懸命にする。
これも普通だ。
そこでじっくり観察する。
まず、大きくは自分がどうしているのかを分かっていない、知らないのだ。
しかし、仮に自分のやっていることを、ビデオなり写真なりに収めたとしても、どうしているのかは分からない。
これは奇妙な事のように思うだろうが、大方はこうだ。
自分の写真やビデオを見て分かる人は、手本を見て工夫をすれば出来るようになる。
それは、手本を頭に像として保管できるからなのだ。
言葉としての保管と像としての保管とは、天と地程の情報量の差がある。
もちろん、言葉といっても体験や像から抽出した言葉は、像や体験と同じ、あるいはそれ以上の情報量を持つ。
しかし、例にある「腕を放る」という言葉だけを単純記憶しても、それはどこまで行っても、意味のない「腕を放る」という言葉であって、具体は浮かび上がっては来ない。
だから、具体的に出来るようになることはないのだ。
結局、「自分は何をしているのだろう」状態だということだ。
当然、出来る事を諦める。
自分はやるだけやったから、という止める理由はいくらでも作れるからだ。
では、ここで何が必要になるのか。
「腕を放る」ということから、まずは「放る」ということを想像してみる。
例えばボールを放る、石を放る、ものを放る等々だ。
その放り投げられたものが、自分の手になるのだ。
そして、見本の動きと同じような動きを作り出す、生み出していく。
出来ない人の特徴は、ここを簡単に通り過ぎてしまうことだ。
これは出来ない人に共通している。
自分が身体として「腕を放る」を体感、体現出来ていない人間だという認識が全く無いということだ。
この体感、体現出来ていない人間だという認識、気付きが訪れるか否か。
そこが大きな分かれ道となる。
大方は、「腕を放る」が出来ない、ということで終わる。
そうではなく、その言葉を体感、体現出来ない自分だ、と一つ歩を進めなければ、身体と言葉にまつわる事柄を、永久に体感したり他人と共有することが出来ないということだ。
出来る人も、出来ない人も、それらは同じ人間だ。
オリンピックの選手レベルの話ではなく、ごく普通の人間の話だ。
出来る出来ないは、そういった取り組み方の差だけなのだ。
しかし、身体は自分でありながら、実は極めて遠い存在なのである。