と、思う。という呪縛

4月28.29.30.5月1日京都ワークショップ
詳しくは
https://www.hino-budo.com/2014KyotoWS.htm
どこまで行っても難しいのは、元々違う状態の人に「こうしよう」と言ったところで、その事は、その人にとっては自分の中には無い事、無かった事なので「こうしよう」というのは所詮知識としてしか、その人に入らない事だ。
いわゆる、こうしよう「と、思う」でしかないということだ。
しかし、その「こうしよう」を自分のモノにすることは出来る。
それは、自分の人生の中で血肉化すればよいということだ。
そうなるまでは「と、思う」の枠から外に出る事は出来ない。
ここの「と、思う」から、自分のモノになるまで、どれ程の時間が掛かるのかは、個人差が有り過ぎて○年位ということは出来ない。
私自身が、歩いて来た人生の中で、多くの先輩、同輩、後輩達からの言葉を、自分のモノにする為には、その「こうしよう」を思わないようにした。
それを頭の片隅に置いていただけだ。
ただただ、自分の出来る事を増やして行くことに専念した。
その事が、あるタイミングで「このことか」と気付くあった。
その瞬間に「こうしよう」は自分のモノになっていたのだ。
大方の人は、ある意味で焦り過ぎなのだ。
焦る現れが「と、思う」に象徴されているのだ。
焦っては駄目だが、焦る必要はある。
時間に限りがあるからだ。
しかし、「と、思う」はいけない。
そうではなく、自分のやっていること、やるべき事に対して焦れば良いだけなのだ。
例えば、「コップに入った水を、こぼさないように向こうのテーブルに置く」という指示があったとする。
すると、「水をこぼさないように」「と、思う」。
そうすると、身体はぎこちなく緊張状態になる。
そこで、水がこぼれなかったら良いだけだ、と言葉を入れ替えるのが大事なのだ。
つまり、具体的にどうすれば良いのか、を考えられる言葉に切り替えるのだ。
つまり、「と、思う」には、なんら具体性が無い。
だから、具体的な事、つまり、自分のやっていること、やるべきことを徹底的に追及すれば良いのだ。
ワークショップでも教室でも、身体を通して、身体操作を通してそういったことを体感していく。
体感するから、その後はそれぞれの個人の問題だが、そこに当てはめれば色々なことを解決したり、整理出来たりするのだ。
90回「武禅一の行」レポートをまとめました。
https://www.hino-budo.com/buzen5.html

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