感覚を共有
4月28.29.30.5月1日京都ワークショップ
詳しくは
https://www.hino-budo.com/2014KyotoWS.htm
自分には敏感というのは、ある意味で誰もがそうだ。
問題は、その敏感さを他人と共有できるかどうかだ。
もし他人が自分程敏感であれば、その人に対峙している自分はどうすれば良いのか。
で、その他人からどうして貰ったら嬉しいのか。
あるいは、スムーズにいくのか。
そういった自分の中のキャッチボールが大事なのだ。
それこそ、そんな手間なことが出来る、するのは人間だけだろう。
その手間を省く為に、幼児や子供の頃の他人との葛藤が必要なのだ。
社会的なしがらみも、固定観念も固まっていない時期の、人との関係が大事なのだ。
というような事を言葉で知っていても、何の足しにもならない。
それを実践出来ないからだ。
共有という扉を開くというのは、実践の扉を開くということでもある、その扉を開かなければ、死ぬまで「自分に敏感」なだけで、他人とは相容れることは出来ない。
しかし、敏感すぎるのも困りものだ。
もちろん、人それぞれだから、他人がとやかく言えない。
ある人には、痛くないことも、ある人には大層痛かったりする。
それくらいの違いはあるからだ。
だから、敏感すぎる人も、共有の扉を開いてみるべきだ。
そうすれば、同じように敏感な人と出会えるかもしれないし、自分の敏感さはおかしいと気付くかもしれない。
場を共有するというのは、そういう意味だ。
殻に閉じこもっていたら、共有は出来ない。
つまり、それは自分に降り注ぐチャンスを、一切受け付けないという意思表示になるのだ。
そういった事を、「武禅」の休憩時間は試されているのだが。
90回「武禅一の行」レポートをまとめました。
https://www.hino-budo.com/buzen5.html