みんなを先生にする

「相手に動かされる」というワークは、海外のダンサー達にも教えている。
しかし、確かに相手のアクションで動くが、それは単に自分が動く為のキッカケにしか過ぎない。
文字どおりの相手に動かされる、ではないのだ。
また、そういった注意をすると、身体を脱力のようなことをする人が多い。
脱力すると、相手からの情報を受け取りやすいと、どこかで錯覚しているのだ。
お酒を飲んでかなり酔うと、身体に力が入らなくなる。
脱力状態だ。
脱力というのは、そういうことであって、相手の情報を受け取る為のものではない。
一時、脱力という言葉が流行ったが、そんなことを考えると、私には意味がさっぱり分からなかった。
武道の稽古でも同じような仕草をする人がいる。
腕の力を抜いて、というと、何だか意味不明の脱力状態のようなことをするのだ。
それは全く意味が無い。
武道としても、スポーツ競技としても意味が無い。
腕の力を抜いて、というのは、腕の力を抜くことだからだ。
相手に動かされるというのは、昨日も書いたように、相手の力の方向や強さに対して動くということだ。
だから、前提として、それらを身体で感じ取れなければいけない。
見ていて面白いのは、目を閉じるひと、下を向く人、色々あることだ。
きちんと目を開き、相手と触れている箇所に注意を向ける人が少ない。
それは、相手の力の方向や強さを、感じ取ろうと「思っている」からだ。
感じ取るのは、感覚の事で、思っているというのは、幻想のことだ。
だから、自分のやろうとしていることと、やっていることが全く違う、ということになる。
それも、自分のやろうとしていることを、実現できないように「自分が壊している」ということになる。
そういう大事なことを、他人が教えてくれる。
但し、他人が何をしているのか、ということに視点が向けば、ということなのだが。
ワークショップでは、そういった注意点を話しながら進行する。
皆が皆の先生なのだ。
皆を自分の先生にしなければ「損」だろう。
4月28.29.30.5月1日京都ワークショップ
詳しくは
https://www.hino-budo.com/2014KyotoWS.htm

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