曖昧な「感覚」を

「感覚」ほど、曖昧で共通認識を持てないものはない。
だから、例えばAさんが「寒い」といいBさんも「寒い」と言った。
としても、同じ寒さや寒さから感じていることは違う。
それは全ての、感覚されたことを表す言葉に共通する。
そんな中で「感覚を研ぎ澄ます」がある。
だから、難しい。
もちろん、私の言う感覚は体感覚だ。
外からの刺激、例えば、押された箇所、ねじられた箇所で感じている刺激を、意識にすくい上げることだ。
そして、その箇所に最大の注意を向ける。
そうすると、漠然とした例えば痛みを、客観的に見る事が出来るのだ。
つまり、他人事のように、自分と切り離して感じ取ることが出来ることになる。
そうすると、刺激がどの方向に向かっているのかを知ることが出来る。
そんな微妙な作業が、感覚を研ぎ澄ますということだ。
もちろん、こういった感覚は本来備わっているものだ。
しかし、文化的な生活と共に、退化している。
そういった感覚を持たなくても、十分に生きていけるからだ。
それは、よくこのブログでかく、スーパーに置いてある商品で、ラップがかかり賞味期限が明記されているのを判断材料にしているから、というように、感覚を代用するシステムが完備されていくからだ。
だから、仕方が無いのだが。
巷には「体感覚」や「身体感覚」といった言葉が並んでいるが、それほど安易に手に入れられるものではない、と知って欲しい。
自分の感覚を疑え、その次に一から感覚を見直していく、という作業が必要なのだ。
しかし、訓練をしなくても恐ろしく身体に対して敏感な人もいる。
そういった人は特殊だから、逆にそういう人の話を聞いたら混乱してしまう。
要は、自分の目的は何か、があり、それにふさわしい感覚を手に入れればよいということだ。

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