改めて「素直」とは
よく私がブログで扱う中味の中に「素直」がある。
たまたまFBを見ていたら、浅田真央選手のことから「素直」について書かれてあった。
まるで、本題を勘違いして捉えているので、「何を書いてあるのか?」と、何度も読み返してしまった。
いわく、「素直」は後天的、つまり、獲得しなければ得られない能力なのだそうだ。
しかし、広辞苑には「飾り気が無くありのままなこと」とある。
決して後天的なものとは書いていない。
もちろん、辞書に書いて有るからそうだ、というのではない。
考える為の基本になる共通認識のようなものだ。
そこから考えると、相手からの言葉を、直感的な閃き(気付き)を持つ、ということになる。
もちろん、何でもかんでも、ということではないし、只々「はい」と返事をすることでも無い。
それは只の相槌に過ぎない。
また、そこに行動が伴っていたとしても、相手のいう事を聞いただけの場合は素直とは言わない。
「言われた事をした」、つまり、そこには多くの判断が働いたから行動になったのだ。
問題は、この判断なるものの有無になる。
あくまでも直感的でなければ駄目である。
そして、それと表裏一体になるのが「頑固」だ。
頑固でなければ素直は出てこない。
何とも矛盾に満ちた言葉だが、子供であっても自分が拘るものを見付けだす力はある。
それを発見した時、それを大人がどれだけ言って聞かせても、叱ってもいう事をきかない。
まずその頑固さがあり、だからこそ、その拘っていることに関する誰かの言葉は、素直に受け止める事が出来る、というようなものだ。
「自分がよいと思ったことを実行に移す力」ではない。
それは単に、先ほどの自分が良いと思う「判断」と「行動力」に過ぎない。
素直に受け止める、というのは、あくまでも「直観的に」であって、そこに判断が入る余地など無いのだ。
逆に自分が良いと思うようなものは、まず疑わなければ駄目だ。
それは自分自身の過去を振り返れば答えはある。
自分は過去において、何を良いと思って行動したのか?
自分にどんな判断力が備わっているのか、自分は何時判断力を身につけたのか?
それを思い返せば一目瞭然である。
つまり、「素直」とは、自分の対象のものが明確にあり、それに対して頑固なまでの拘りを持つという自分がある。
という大前提の下に、発揮される直感的受信即行動、という事になるのだ。
言葉にすれば、相当複雑でややこしい。
それこそ素直には書けないのだ。