違いがある
Youtubeの恩恵を受けている。
それこそ、世界中の面白い動画から、こんな映像が残っていたのか、と思うほど貴重なもの、昔見た懐かしい映像まで、多種多様な情報がそこにある。
おかげで、「何でこれがおもろいんや」とか「凄い」「アホか」と突っ込みを入れながら、外国の文化と日本の文化の違いを知ることも出来る。
こういった動画を「見る」。
「見えていること」と最大公約数的に言葉を使うが、誰も同じものを見ていない。
という最も基本的な事が、人間関係でズレを起こさせるのだ。
築地市場に美味しいすし屋があった。
あったというのは、今は普通のすし屋の味になっているということだ。
以前は、頑固そうな親父さんが握っていたが、今は若い人が握っているからだ。
ネタやレシピはきっと同じだろうに、握り手が変わったら味が変わってしまう。
人によって違うということだ。
それに気付いたのは、その昔バーテンをやっていた頃に遡る。
同じ材料で水割りを作っても、チーフが作るものと自分が作るものの味が違ったのだ。
もちろん、チーフのが美味しかった。
その体験が頭にこびりついているのだ。
「何でやろ」音楽をやり出した時も、同じ楽器でも人により音色が違う。
しかも、同じ音楽的レベルの人同士であっても違う。
当たり前だが、違いを分からない人は沢山いる。
その事が、逆に同じものを見たり聴いたりしていても、「見えていること、聴いていることは違う」という気付きに繋がったのだ。
もちろん、同じである必要などどこにもないし、同じになることは無い。
ただ、言葉的には同じになることもある。
その意味で、言葉はあてにならない。
だから、あてにならないなりに、どうすれば厳密化できるかを考えざるを得なくなったのだ。
「武禅」でアイコンタクトでのゲームをする。
しかし、本当にコンタクトできているのかは分からない。
人は一瞬の動きを掴み、同時の様に動けるからだ。
そんな疑問が、新たな稽古方法を見つけ出していくのだ。