患者と向き合える医者に
「今のうちだけやで、自分を鍛えられるのは。年をとると、頭では分かってはいるけどね、と言い訳の頭が働くようになるから」
一昨日、研修医達の研修での一コマだ。
思わず老婆心が湧いて来る。
与えてくれるものだけを吸収すれば良い、と思っているのかもしれない。
好奇心の欠片も見えないからだ。
どんな場合でも、マンツーマンで無い限り、与えてくれるものは一般論でしかない。
決して自分と言う、個性に適したものではない。
それは、自分自身が自分自身の頭と身体を使って獲得しなければどうにもならない。
自分の力で獲得する、つまり、自分の個性が獲得するのだから、自分に適したものになる、自分に適したものにしかならない。
それから、その水準、質を上げて行くしかない。
それが、ある意味での成長法だ。
そんな当たり前のことにすら気が付かない。
もちろん、こういった抽象論的に知っている必要はないが、じっくりと自分の事を考えたり、学ぶとは何か?を考えたりすれば、自ずとその答えとして浮き上がってくる筈だ。
自分自身を鍛えて行かない、自分自身を成長させない、というのは、自分に対する怠慢以外の何物でもない。
しかし、それは誰も与えてはくれないし、与えられるものではない。
「患者さんと、きちんと関係性を築ける立派な医者になって下さい」
そこをテーマにした研修だった。
この関係性と言うのは、言葉としてはどこにでもあるし、誰もが口に出来るが、その実際は、というと、殆ど見た事が無い。
単に言葉を交わせば、会話が出来ていれば、関係している、という程度のものばかりだ。
そんな事で良いのなら、何も悩む必要も無いだろう。
誰にでも話しかける練習をすれば良いだけだからだ。
患者の目を見て話をしない医者、他人事のようにしか話せない医者。
そんな医者に対して、不信な気持ちを抱くのは当たり前だ。
その事が、強いては「主治医を変えろ」と言われたり、「治療は適切なのか」と突っ込まれることになるのだ。
そんな事を研修医の段階で、全く分かっていないのは、どういうことだろう。
つまり、患者という生身の人間不在で、病名や病状に対して対処しているだけなのだ。
と言っても、本人達はそうは思っていない。
それは、その病名や病状を持っているのが人間であり、紛れも無くその人に向かっている。
その事が、患者と向き合っていると錯覚しているからだ。
この事は、あらゆるジャンルに当てはまる。
私自身も当初、「突き・蹴り・刀で斬る」という様な、現象を相手に考えていた。
しかし、そんなことはじっくり考えたら分かる筈で、どんな攻撃であっても、受けであっても、それは人間そのものの行動でしかない。
つまり、相手にするのは、様々な攻撃ではなく人そのものなのだ。
だから、人というものを、自分を通して徹底的に観察するようにしていったのだ。
また、それは昔日の達人が残した言葉の端々に見られる。
だから、武道は関係性の芸術である、ということを発見していったのだ。
関係性そのものは、現象としてしか体感することは出来ない。
しかし、全く分からない人も沢山いる。
研修の中でも、分かった人、理解出来た人、実際にその入り口を体感出来た研修医は一割程だった。
もちろん、一割の人でも、患者と向かい合える医者になってくれれば、いないよりもましだし、その人達が他の人に影響を与えていくかもしれない。
それを願ってやまない。
そして、この「関係性」だが、これに特化して稽古をするのが「武禅」だ。
人は間違いなく人と会話をする。
そのことが関係の一つの現れだからだし、その事が関係だと認識しているからだ。
しかし、大方は上の空、空虚な中味しかない。
それを体感し、あるいは、人に指摘され、その空虚な中味を積み替えるヒントを得る。
その二泊三日が「武禅」だ。
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第90回武禅一の行 3月21.22.23日
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