人は人の中でこそ
「あっ!」一斉に悲鳴に似たどよめき。
テレビを見ているこちらも「あっ」思わず叫んでしまった。
高橋選手が転倒。
余程足の怪我がひどかったのだ。
それでも果敢に二回目の4回転に挑戦した。
演技が終わって涙をこらえているのが、伝わって来た。
男子フィギアの結果は羽生選手が1位。
文句無くオリンピックへ。
人情としては、高橋選手をオリンピックへ行かせてやりたいと思う。
しかし、いかんせん点数というシビアな結果がある。
そういった葛藤も、人ならではのものだ。
話は完全に飛んでしまうが、大自然の中で自給自足の生活をする日本人が紹介されていた。
雄大な大自然の中で、家族が生活をする。
逆に大都会で社会生活を送る我々には、何とも羨ましい光景だ。
ふと、本当に羨ましいかのか、と自問自答してみた。
人は人との関りの中でこそ、人として人生を全うする。
人というのは、大自然の一部であって、決して人工物ではない。
人との関りで生きる、実はそれも自然を相手に生活をしているのと同じである。
人という限られた時間の中で、限られた成長、生き方をしそれで朽ちていく。
それが自然なのではないか。
人を大自然だと捉えた時、煩わしい事も起こって当たり前だ。
私は、その意味では二束のわらじを履いている。
山の生活と都会の生活。
冬になれば水は凍り、生活する為の水はこないこともある。
雪が積もって、用事があっても街に出られないこともある。
その他諸々の不便がある。
それを人間関係に置き換えた時、まるど同じことだと分かる。
突然何かが起こる。
それが自然だ。
人間関係も、突然予期せぬことが起こる。
予期せぬというのは、主観的にしか物事を見ていない、見る事が出来ないからだ。
だからこそ、「仕方が無い」という考え方が生まれるのだ。
そんな事を考えてみる。
それも、人ならではのことだ。
その意味で、人というのは意識を肥大化させたばかりに、相当複雑でやっかいな代物なのだ。
それは大自然の比ではない。
もちろん、人はそれぞれだから、どう考えなければ駄目だというものはない。
私は人という自然と関り、高橋選
手の転倒に様々な感情を持つ。
羽生選手の怪物ぶりに驚嘆する。
浅田選手の演技から天才ぶりを汲み取っていく。
そういった人特有の意識を選ぶし、そちらが好きだ。