話が見えない
何かを聞かれた時、また、何かに対しての意見を聞かれた時、結論を先に言わずに、回りくどい説明、良く言えば結論に至る周辺情報を、やたらと話す人がいる。
今日も、大阪からの帰りJRのホームで、客と駅員とのやりとりがそれだった。
客は、目の前に停車している列車が、王子へ行くのかどうかをたずねた。
駅員は、ダイヤが混乱していて、どうのこうのと話し出した。
客は何のことやら分からない、という表情。
それでも駅員は話す。
こんな光景をよく見かける。
どうして、聞かれたことに答えないのか。
それは、事件や事故で記者会見をする、責任者やその代理の応対と余りにも似ている。
もしかしたら、内容を曖昧に話す為の研修が有るのではないか、とさえ思ってしまう。
どうだっていいような事は、曖昧でいいだろうし、時間を持たす為には曖昧な言い方でいいだろう。
しかし、結論を待っている人がいる場合は、それは駄目だろう。
うやむやにして、責任の所在を隠してしまうのは、保身だけが人生だと思っているおっさん達で充分だ。
先日の特養の研修で、こういう研修もした。
単刀直入に話すワークだ。
だらだらと回りくどい話は、時間の無駄以外の何者でもない。
そのだらだら話しで、丁寧に話していると錯覚し、自分は仕事をしていると思っている人もいた。