別のことをすることで

Aということが出来ないから、その補助のためにBということをする。
それは、言葉面は間違っていない。
昨日の大阪教室が終わってからの食事の時の話だ。
その人は元来怠け者だから、そんな事を直ぐに考えると言っていた。
私は「補助の為、ということではなく、Bに本格的に取り組んだらどう?でないと、Bは補助にはならないで」とアドバイスをした。
そういった事は、日常的にある。
確かに他のことがメインの補助になることもある。
但し、補助の為に、という意識では、補助にならない。
やっただけで終わってしまうのだ。
ただ、そうした時、メインと補助が逆転してしまうこともある。
それは、その方が自分に合っていたのだ。
あるいは、興味があったのだ。
全く話は違うが、昔、洗い屋をやっていたことがある。
色々な建築現場の最終的な掃除というか、金部や木部、タイル面などについた、モルタルや汚れを落とす仕事だ。
あるいは、お寺や古い木造建造物を、薬品で洗い頃合の美しさにやり直すのだ。
各現場で、使う道具や薬品が異なる。
まずは、従来方式で試してみる。
しかし、もっと良い方法が無いかと考える。
異なる道具や異なる薬品を試す。
しかし、結局は従来方式が一番だということになることが多い。
従来方式の手際をどれだけ良くするか、それに掛かることが多い。
もちろん、道具も何もかも変え、時間を大幅に短縮した事も沢山ある。
それは発想の転換を行った時だ。
しかし、従来方式の手際を極限まで極める事が大事だ。
私自身が、直ぐに「もっと他に方法はないか」と考える性質だから、余計にそのことが分かる。
一つの事を極めていくには、相当時間が掛かる。
それは、どんな作業でも同じだ。
人は道具を発明し、ある意味で、そういった極めていく手間を奪った。
結果、極めて良く手間というのは、職人さん達を始め、伝統的な何かだけのものになってしまった。
もちろん、本当はそうではない。
それは目に見えているだけのものだ。
何よりも自分を育てていくのは、一生という手間が掛かる。
というような考え方が、道具の発明と共に薄れていったとも考えられる。

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