身体と表現
「表現力」なる言葉が、いわゆる表現の世界、例えば舞台、例えば映画、例えば小説、だけに留まらず、体操であれ、スケートであれ用いられる。
結果、表現されたものと、表現する力、無意識的に表出したもの、はたまた、客観的な視点からの表現、哲学のテーマとしての表現他、様々な視点や価値観が混在している。
もちろん、それらはそれぞれの世界、分野における価値観だから、その分野では共通言語として用いられている。
その意味で、「ええ~、一体何の話?」と首をひねることがしばしば起こる。
それは、その分野では「表現」と捉えるが、別の分野では「そんなもん表現でも何でもない」という事があるからだ。
フィギアースケートで用いられる「表現」という言葉は、当初何のことか分からなかった。
「表現力」がありますね、等々と解説者は用いる。
多分、審判もその視点なのだろう。
私からは手を動かしているだけ、足を動かしているだけ、にしか見えないからだ。
もちろん、選手達のスケート技術は別だ。
フランスの映画で題名は忘れたが、主人公がバイオリニストで、彼の先生の前で演奏をするというシーンがあった。
演奏を聴いた先生が「指は良く動く、音もなっている、テクニックは完璧だ、しかし君の演奏はクソだ!芸術ではない」と主人公を罵倒するのだが、主人公は「何を言っているのか?」という表情をする。
これには大爆笑した。
簡潔で名言だったからだ。
「君の演奏には何も無い」つまり、逆に言うと指が良く動くのを、表現されていると捉えるレベル、音が美しいのを表現と捉えるレベル、作曲家の内面が演奏になっていなければならないレベル、とレベルの差、違いがあるということだ。
その意味で、「表現」という抽象的な産物を扱うのは難しい。
しかし、あるものを提示し、それがその分野での「表現」だと解釈されるとしたら、それは作戦を立てやすい。
それを表現であり、芸術だというのであれば、そこを攻めることが出来たら、最高のものを観客や審判に贈ることが出来る事になる。
つまり、どんな場合でも、彼を知り己を知れば百戦あやうからずや、ということだ。
身体を駆使する分野では、身体を使い切るというところが、その盲点なのだ。
動かしてはいるが、使い切ってはいないのだ。
もちろん、使い切るというのは動かしきるという事ではない。
身体の仕組みを駆使するということだ。