思っていても何も出来ない
9月に行った東京と岡山のワークショップをまとめました。
写真も沢山ありますよ。
「お知らせ」の中に入り口があります。
https://www.hino-budo.com/index.html
ワークショップや教室を見ていて、おかしいと思うことがある。
それは、「技術」を身に付けようとしているのか、自分の「思い」を満たそうとしているのか、の二つがあることだ。
最近まで、そのことには気付かなかった。
中々出来ない人は、単純に物覚えが遅いとか、練習が足りないのだと思っていたのだ。
しかし、そうではないことが見えてきたのだ。
もちろん、物覚えが遅い人もいるが、そういった人とは少し違うのだ。
技術を身に付けようというのは何の問題も無い。
こちらは、技術を提供しているのだからだ。
しかし、「思い」を満たそうとしている方は、明らかにおかしい。
思いを満たす、というのは、例えば「強くなりたい」「身体がもっと動くようになりたい」いわゆる「~たい」というものだ。
それの何がおかしいのか。
もちろん、何かをするキッカケとして、そういった欲求があって当然だ。
「ギターが上手く弾けるようになりたい」と中学の頃思った。
そこから言えば、誰でもそういった欲求があり、その方向に進む。
では、その何が間違っているのか。
その「思い」は、最初にあるもの、きっかけとしてあるものであって、ずっとあるものではないのだ。
つまり、「ギターが上手に弾ける様に」であれば、次は、様々なギターの技術の練習をする。
その技術修得に対して、「ピックを滑らかに」とか「フィンガリングが力んでいる」とか、技術にまつわることが自分を支配し、どんどん具体的なことに向かう。
もちろん、それが普通だ、と思っているが。
しかし、おかしい人のは、ギターが上手く弾けるように練習をしているのに、「ギターが上手に弾けるように」と思っていることだ。
具体的な練習の方には、向いていないのだ。
例えば「今、あなたは何をしているのですか?」と聞くと、「練習をしています」と答える。
次に「練習しているのは分かるけど、何を練習しているのですか」と聞くと「連動」と来る。
「連動の何を、あるいは、連動が出来るように何を練習しているのですか」と続けると、「連動が上手くできるように練習している」と終わる。
つまり、最後の言葉が「思い」なのだ。
という具合に、全ての言葉が、抽象的であって、どこにも具体性が無いということだ。
つまり、「ギターが上手に~」が、自分を支配しているのだ。
その違いが、見ていると手に取るように分かる。
「ギターが上手に~」の人は、ギターの練習をしていること自体が満足なのだ。
練習そのもので、自分がその技術に対してどうしているのか、には全く関心が無く、ひたすら練習を繰り返すだけだ。
もちろん、自分はその言葉に支配されているから、練習の全ては上の空になる。
だから、実はその時間は何もしていなかったのだ。
だが、汗をかいて一生懸命に思ったから満足している。
幸せな人だ。
技術を修得するというのは、有る意味で至難の業なのだ。
自分を客観的に捉えられなければ、技術は修得できないからだ。
つまり、自分は何が出来て何が出来ていないのかを、知っていなければならないし、その時点での最終地点を明確に持っていなければならないからだ。