出来た、何が?

ドラムをやり出した時、メトロノームに合わせて叩くのが難しかった。
スティックのコントロールで、バウンドを拾うのが難しかった。
ドラムという楽器の音を鳴らすのが難しかった。
自分のイメージする音を出すのが、今では難しい。
つまり、何かを追求していくと「出来た」ということなど無いということだ。
しかし、最近の人は「出来た」が好きだ。
何かと言うと「出来た」と思いたいのだろうか。
もちろん私にも、小さな喜びとしての「おっ、やった!」というのはある。
しかし、多分一瞬でそれは消える。
というのは、すかさずそれが本当に出来ているのかを、時間をかけて確かめていくからだ。
だから「出来た」は私には、多分無いのだろうと思う。
逆に言いたくもない言葉の一つだ。
もちろん、メトロノームに合わせて叩く練習をしていて、1分でも2分でも、メトロノームの音が消えてしまうことがある、つまり、ほんとに同時だから音が消えるのだが、それが出来て「おっやった」と興奮はする。
しかし直ぐに次に進むので、少しも嬉しくなかった。
と考えると、最近の人は取り組んでいるそのものが単独であり、その事が出来たら「出来た」と思ってしまうのだろう。
そして、「出来た」ということを、自分以外の人に言ってもらえることで解決するのだろう。
しかし、ドラムをする、と決めた時、そこにはジャズという音楽が有り、色々なテクニックがあり、素晴らしいドラマーたちがいた。
その世界に入るというのが、ドラムをするということだ。
つまり、たった一つのことが出来たからといっても、その世界に入れたのではない。
つまり、目的からすれば、色々なことは出来て当たり前のことだし、多くのドラマー達が通った道のたった一歩に過ぎないからだ。
そちらの方に目がいって「出来た」と納まるわけにはいかないのだ。
だからといって「出来ない」とも思わない。
それは「今、自分は取り組んでいる」からだ。
出来なければ出来るまでやればいいだけだからだ。
1年で駄目なら2年、それでも駄目なら5年。
自分が決めたのだからやれば良いだけ、それ以外に何がある?
また、自分以外の人の言葉などどうでもいい。
自分がそれをやり、出来ているのかいないのかを分からないのなら、あるいは、出来ていなくても次に進む、という判断が出来ないのなら、それは奴隷に過ぎないからだ。
人は独立した人間の筈だ。

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