自分が一番
「武道家が語る人間関係の極意」
お申し込み頂いた皆さん、ありがとうございました。おかげ様で、会場が満席になったので締め切ったそうです。
人は、目の前のその人を見ているのか、大なり小なりそんなことが、何時も疑問に思う。
例えば、私はジャズドラムを生業にしていた。
その事を目の前の人は知っている。
しかし、とうとうと程度の低い音楽の話をする。
さも、自分が音楽のことを知り尽くしているように。
そんな時、こいつは一体どんな人生を歩いて来ていたのか、と不思議に思う。
きっと、他人という存在を、全く理解していないで生きて来ているのだろうと。
ということは、他人の持つ価値を理解することなど、出来ていないのだ。
もちろん、音楽の話を私にしたのは、著名な人だ。
それは、まるで学校生活しか知らない、温室育ちのひよっこのようだ。
他人は自分ではない。
そんな当たり前のことの認識がまるでない、ということだ。
一つの世界、つまり、自分だけの世界しか知らないというのは、致命的だ。
先日の「武禅」でもそれがあった。
道場の補修の話で、足場丸太を組めば作業が捗ると、専門家でもない人に妻が説明されたのだ。
この道場は、基礎こそ専門家に任せたが、それ以外は私が自力で建てたのだ。
ということを、その人は知っている。
しかし、そこに誰がどう関って、どんな作業があり、どんな苦労があり建てたのかは想像できていない。
だから、丸太を組めば、という話になったのだ。
私が自力で建てたということは、妻も当然手伝っているということだ。
それは、誰でも想像がつく筈だ。
つまり、人は何かしらの蓄積のある人、そしてそのことを他の事象に転化できる人以外は、そこにある事象も、他人をも理解しようとはせずに、自分がその場で思い付いた事、あるいは、自分の知っていることを話す、ということだ。
その事で、他人からは「こいつは馬鹿か」と思われることもある、ということを知らずに。
つまり、そういった失敗体験が無いのだ。
違う角度から言えば、そういう失敗体験を出来ることは、少ないということだ。
他人は決して、「こいつは馬鹿か」とは言わないからだ。
誰も他人とは関りたくないのだ。
それを直球で投げあうのが「武禅」だ。
それが他人と関るということだからだ。
89回目の「武禅」レポートをアップしました。
https://www.hino-budo.com/buzen5.html