一歩踏み出したいのか、踏み出したくないのか

秋の「武禅」は10月12,13,14日です。
https://www.hino-budo.com/buzen1.html
では「出来たような」を指摘する人はいるのか、と言えば殆どはいない。
つまり、要素を認識していない事が殆どで、もっぱら現象そのものにどれだけ近いのか、あるいは、現象そのものなのかに、価値観が偏っているからだ。
一つの現象があっても、そこに含まれる要素は様々だ。
例えば、腰痛と言っても、それの原因が多種多様なのと同じだ。
だから、原因をきちんと分からなければ、腰痛が治ることは無い。
投げしかり、突きしかりだ。
同じように見えても、そこで起こっていることは、千差万別なのだ。
もちろん、「型」しかりだ。現象そのものだけを追い求めるから、自分勝手にならざるを得ない。
もちろん、結果としての現象を追い求めるのが、悪い、あるいは間違っているのではない。
結果としての現象から、その根本的な原因や、過程を探り出すことが稽古だ。
だから、稽古は自分との戦いだと古人は残しているのだ。
結果としての現象にどれだけ近づく事が出来るかは、原因や過程を追究した結果であって、現象を稽古するのではない。
それは、余り意味は無い。
何故なら、その現象が何かに応用されることが少なすぎるからだ。
それよりも、要素、つまり、そのものの成り立ちや、そうなる過程を探り出すことは、自分の取り組む全てのことに応用できるし、それ自体が自分にとって価値のあることなのだ。
「出来たように」をやると、自分の延長線上に、そのものが有る、という理屈になる。
つまり、極論で言えば、そのまま練習を続ければ将来において実現する、ということだ。
であれば、すでに出来ることは分かっているのだから、そんなものに取り組む必要など無い。
そこに、自分自身の葛藤や試行錯誤は必要ないからだ。
少なくとも、自分の枠を広げたり、自分の何かしらを成長させることではない。
もちろん、ここは選択の自由だ。
前に進みたいのか、進みたくないのか。
それを選ぶのは自由だ。
誰でも成長しなければならないのではないからだ。
「武道家が語る人間関係の極意」
久しぶりの講演会です。
近畿地方の方は、是非お出かけください。
http://ilt.jp/extra01/entry.html

Follow me!