出来たようなことは、何も出来ていない

秋の「武禅」は10月12,13,14日です。
https://www.hino-budo.com/buzen1.html
縦系の連動から、指先に体重を伝え、相手を下に落とす。
何も知らない人は、何のことだろう、と思うだろう。
全身を連関させて使う、あるいは、全身を連動させて使う。
そこのキーワードに「身体を順に感じる」が入る。
これは、ワークショップでも教室でも定番のワークだ。
先日の岡山でも行った。
岡山では5回目になるワークだ。
つまり、年に一回を5回しかやっていない、ということだ。
今回、この縦系の連動のワークで、完全に掴んだ人が二人いた。
ワークの間、その兆候があった。
だから、注意深く見守っていたら、組んでいる二人は自分達の力で、それを獲得したのだ。
もちろん、完全ではない。
しかし、多分ヨーロッパも教室も含めて、色々なところで同じワークをしているが、この二人が一番乗りだ。
これには嬉しくなる。
本部に来る高校の教師も出来た。
つまり、私のワークは実現性がある、ということを証明してくれたのだ。
岡山の二人は空手だ。
一人は、その流派の全日本チャンピオンだ。
しかも、3人兄弟揃ってのことだ。
一人も空手だが、どちらかというと元やんちゃだ。
この二人は、とにかく工夫をする。
休憩時も、私の傍を離れずに、稽古の話しや考え方の話に華が咲く。
色々な話から、自分に適したヒントを獲得しようとしているのだ。
だからといって、この二人が一緒に稽古をしているのではない。
今回も、ワークで顔を合わせたのが、数年ぶりだと言っていた。
一人でも、稽古を積んだり、工夫をしたり、色々と出来るということの結果でもある。
毎週教室に通ったからといって、あるいは、それがもっと増えたからといって出来るものではない。
それは、全てに共通する。
自分が何を望み、そこに挑んでいるのか、それに尽きるのだ。
そういった「自分が」ということを持たない人は、あるいは、持っていたとしても、それが「思う」だけの人は、やっていることがリクリエーションに過ぎない。
当然、何時まで経っても新しい自分になれることはない。
また、ワークや教室で「出来たようなことをする人」も、同じだ。
少し前、東京教室に来た若者にそれを言った事がある。
「出来たようなフリをしたら駄目やで、それだったら、自分のクセが『出来たような』をやっているだけだから、新しい自分にはならないよ」と。
教室に長年通っていても、単なる熟練者にはなるが、要素を獲得できない人の多くはこれなのだ。
道場や教室に通っても、毎回「出来たような」をやるだけだから、永久に自分のクセでやっているに過ぎないし、クセを助長しているに過ぎないからだ。
「武道家が語る人間関係の極意」
久しぶりの講演会です。
近畿地方の方は、是非お出かけください。
http://ilt.jp/extra01/entry.html

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