関係とはお互いにこころに触れる
■東京ワークショップ
9月13,14,15,16,17日
16.17日は、表現者の為の特別教室です。
場所も、何時もの新木場マルチスタジオです。
https://www.hino-budo.com/index.html
お知らせにあります
関係し合えている、というのはどんな状態か。
昨日書いた少年少女は、どんな状態になったのか。
というと、表情が芯から緩み感情が喚起された。
その溢れた感情は、周囲の人を和ませる。
その感情は涙を誘発することもある。
もちろん、悲しいのでも怒りでも喜びでもない。
もっともっと深いところで、こころに触れるからだ。
あるいは、生命に触れるからだ。
そして、そこには言葉が無いから起こる現象だ。
赤ちゃんがこちらに微笑みかけたとき、思わず笑みがこぼれる、まさにそれだ。
赤ちゃんには、判断力は多分無い。
あるのは、本能的な働きだ。
しかし、意思はあるだろう。
つまり、本能の働きとしての好奇心が、意思という方向性により直球でこちらに届く。
その時、こちらの判断は停止し、こちらの感情そのものに、あるいは、こころそのものに響くということだ。
それが無垢の関係された状態だ。
私は、それだけを関係と呼び、その入り口を「正面向かい合い」と呼んで、ワークショップや「武禅」でのメインワークに取り入れている。
しかし、この関係されているという現象は、判断や理解しようという意思が働くと起こらない。
そこが一番の壁になる。
「どうすれば出来るのか」という意識が生まれ、それがあくまでも方法論に向かうから、どんどんそこからは離れていく。
そうなると、線路と同様、永久に交わることは無い。
「どうすればできるのか」という、疑問は間違ってはいない。
ただ、そこから方法に行くのではなく、こちらの指示通り「どうすれば、思考や思いを遮断できるのか」と考える必要があるのだ。
人に向かおうと思うのでもなく、人に向うと考えるのでもない。
つまり、「改めて」という無意識が働けば駄目なのだ。
ただ目の前の人に…。
それだけだ。
何を、でもなく、何かでもなく、目の前の人に、なのだ。
表現ということで言うと、この関係されているという状態の中に、セリフを落とし込んだり、ダンスを落とし込んだりすれば良いのだ。
そうすると、先ほどの赤ちゃんの微笑みを体感するような、関係性のあるそのものがそこに生まれ、周囲の人は思わず見てしまうのだ。
東京のワークショップでの、後半2日間は、徹底的にここを稽古する。
■1年ぶりの岡山のワークショップです
9月21.22.23日です
http://workshop.digiweb.jp/