言葉はいらない
■東京ワークショップ
9月13,14,15,16,17日
16.17日は、表現者の為の特別教室です。
場所も、何時もの新木場マルチスタジオです。
https://www.hino-budo.com/index.html
お知らせにあります
バレンシアでのワークショップ、福岡、沖縄のワークショップ。
これらに共通している事があった。
それは参加者の中に、10代の少年、少女が交じっていたことだ。
大方の場合、子供達の参加は断っている。
というのは、ワークが「誰にでも出来ますよ」的な、茶番ではないからだ。
そして、何の問題も持っていない者には、不必要なワークでもあるからだ。
それでも、という場合、特別な扱いはしないという条件付だ。
バレンシアの場合は、15歳の少年、福岡には13歳の少女、沖縄には17歳の少女が参加していた。
この子達の共通していたのは、関係を身体の反応で赤裸々に反応していたことだ。
つまり、大方の人は、ワークであれその説明であれ、何れにしても納得することで、価値をそこに見出理解しようとするが、この子達はそういった納得、つまり、自分の判断を価値基準とせずに、身体で起こっている反応を価値基準としていたということだ。
もちろん、最初からそうだったのではない。
ワークを重ねる中で、自分の感性に気付き、それが心地よいから、そのものが価値となったのだ。
だから、この子達は、人同士が言葉ではなく、直接的に理解しあえることを理解していたのだ。
この無邪気な感性は、ほんとに素晴らしい。
大人たちが「どうして出来たの?」と、この子達に説明を求めても「分からん」と一言で終わる。
分かる必要などどこにもない。
体感しあう事、そのものに価値があるのだ。
それと「分からん」こそ大正解だ。
分からない、つまり、判断を介していないということの証明だ。
頭を介さないからこそ、関係し合えるのだ。
この子達は、人が関係するとはどういうことか、を身をもって体験した。
ということは、それは一体何がどうなることなのか、あるいは、関係した状態とは、何をもたらすのか、ということについて、将来的には考えられるということだ。
体感、実感があるからこそ、そこから言葉を紡ぎ出せるし、その言葉のみが自分の言葉として、他人に発することの出来る言葉なのだ。
■1年ぶりの岡山のワークショップです
9月21.22.23日です
http://workshop.digiweb.jp/