もう一丁悟りで
もう一丁、悟りを買える?
そこが発行する資格は貰える。
でも、自分は何も変わっていない。
「そのままでいいんだ」の如く、何も変わっていないのだ。
変わったのは、新しく覚えた言葉とそれの並べ方くらいだろう。
もしかしたら、神経過敏になっているかもしれない。
しかし、その程度の感覚は、少し病的で過敏な人なら、持ち合わせている。
これは、自分にとって心地よい言葉、例えば、一体感だの空間を感じるだの、自然との共有感だの、今という時間と一体という言葉に誘導されるからだ。
もちろん、それは本当に感じているのかもしれない。
しかし、それを感じられたところで、生きるのに一番重要な、様々な人間関係の達人になれることはない。
社会を生きる達人になれることはない。
悟りというものを買ってしまった、ツケは払わなければならない。
古来より悟りを求め、死を賭して人は難行苦行を乗り越えた。
いまでも、千日回峰行が行われることもある。
要は、その過程に意味があるのであって、結果にあるのではない。
そんなことは、誰でも知っていると思っていた。
その熱が覚めた時、相変わらず、環境に振り回される自分がそこにあるということだ。
感覚という事で言えば、例えば、自然との一体感などというものは、トレッキングをしている人なら感じるだろうし、ダイビングをしている人なら感じているだろう。
それが過酷なものであればあるほど、生死の境ということで、誰にも体験し得ない体験をしているだろう。
空間ということであれば、宇宙飛行士ならもっと壮大な空間を感じただろう。
だから、帰還して宗教に進む人もいるくらいだ。
しかし、だからといって、その人達が生きる達人ではない。
研修は、旅に出て帰ってきたようなものだ。
1週間くらいは、熱病のごとくうなされるが、本当にわずらわしいことがあった時、それに対処できない。
何よりも、緩みきった表情が、穏やかなこころを得たのではないことを物語っている。
そんな人をいくらでも見てきているから、未だにそういった、即席スーパーマン願望を持っている人がいることが分からない。
あるわけないやろ。
人類は工夫をするのが得意だ。
だから、合理的な、ということを考える。
それはありとあらゆる分野に触手を伸ばし、合理を追求していることで分かる。
しかし、合理が及ばない世界は歴然とある。
それは自然物に対してだ。
白夜の国で、夜を作ることが出来ないようなことだ。
で、人間にとって一番身近な自然物、それは紛れもなく自分自身という人間だ。
人間そのものが自然物だと分かっているのだろうか。
ただ、頭の中は人工物で一杯だ。
つまり、思考は人が作り出した言葉で一杯だということだ。
そして、自分にとって都合の良い言葉が溢れている。
だから、自分にとって都合の良い言葉に似た言葉があれば、それに磁石のように引き寄せられるのだ。
つまり、自分の言葉に振り回されているということだ。
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