嫌われたくない?好かれたい
「嫌われたくない」を現実化する為に工夫をする。
工夫の第一歩は、目的(嫌われたくない)の構造を推理することだ。
どんな要素で出来上がっているのか?それを考えるのだ。
しかし、ここでまたもや妄想が突っ走る。
「それを考える」といっても、考える為には、材料が必要だ。
材料とは体験や知識だ。
それらが少なければ、材料が少ない。
となると、考える幅も狭くなる。
もちろん、少ない材料で深く突っ込める人もいる。
そういった人は稀だ。
まず材料を集め、そこから「それらはどういう仕組みで出来ているのか」を推理するのだ。
共通項を見つけ出す、ということもある。
材料を持たずに「それを考える」というのが妄想だ。
そうすると、頭の中で妄想がぐるぐる駆け回り、結局振り出しに戻るだけだ。
大方の人は、それを繰り返しているのだ。
どうしてそうなるのか。
知識や体験を探し出す、というのも、行動が必要だ。
しかし、妄想を繰り返している人は、そのクセが付いていない。
逆に妄想を繰り返す、というクセは付いている(行動を起こさないクセ)。
だから、たとえ年齢が若くても、その一歩がしんどいのだ。
だからすぐに諦める。
一歩を踏み出さない、正当な理由を見つけるのには長けているからだ。
それも、一歩を踏み出さない、という自分が、自分を正当化させる理由を見つけさせているのだ。
「嫌われたくない」というのはどういうことだろう?
自分の中のそれを引き出さなければならない。
それが一番最初の材料だ。
嫌われたくないというのは、逆に好かれたいということだろうか?
そういう、逆からの視点も必要だ。
では、好かれたい?誰から?誰からも?有り得ない。
有り得ないというのは、そこに「もしも自分なら、どんな他人でも好きになるだろうか」に置き換えるのだ。
そして、自分の知る色々な人の顔を思い浮かべる。
そうすると、自分にとって気持ちの悪い人、うっとおしい人、色々の顔が思い浮かぶ。
となると「有り得ない」となる。
では、特定の人達だけから好かれるのか?となる。
そうすると、また現在の自分にとって都合の良い人だけということになる。
そうなると、妄想的堂々巡りの輪にはまるのだ。
ここで「あれ?」となるかどうかなのだ。
「あれ?」というのは、自分に対する矛盾の発見だ。
この「あれ?」が、一歩踏み出す動機に出来るかどうかだ。
「ねばならない」ではなく、「あれ?」だ。
つまり、問題そのものがおかしいのではないか、という疑問だ。
「嫌われたくない」という問題そのものがおかしいのではないか、なのだ。
ここで、中高生の幼い状態、自意識過剰な状態であれば、「嫌われたくない」というのも、不思議ではない。
という答えに辿り着けるのかどうかだ。
もしも、辿り着けたら、それを考えたということになる。
答えがここにあるから「そうなんだ」ではない。
いくら「そうなんだ」と思って見ても、それは私の答えであって、問題を持った人の答えではない。
ただ、知識の一つにはなるし、妄想の材料にもなる。
誰からも嫌われたくない。
それこそが妄想なのだ。
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