嫌われたくない

「武禅」で書かれたレポートを改めて読み返してみると、かなりの共通項を知ることが出来る。
それは結局のところ、他人からどう見られているのか、がやたらと多い。
あるいは、良く見られたい、とか、こう見られたい、嫌われたくない、という欲求があることだ。
もちろん、それそのものは良いことだし、当たり前に誰でも思うことだ。
そして、少し過剰だが、他人という存在を認識しているということにもなる。
ただ、間違っているのは、欲求があるだけで、ではその欲求の為に自分はどんな努力をしたのか、あるいは、しているのか、が欠落していることだ。
欲求は多ければ多いほど良い。
それらは、自分を確立させるし、自分を強くしていくからだ。
但し、それをいくら思っていても全くの無駄だし、「武禅」では、そのことを見破るよう稽古をする。
だから、そういった人達からは「気持ち悪いです」と直球で指摘される。
もちろん、日常の社会でも見破られてはいるのだが、誰もそんなことは言ってはくれないし、人は皆、先ほどの「嫌われたくない」と思っているのだから、言う筈も無い。
もちろん、このことは、演劇やダンスを観た観客や友人からのコメントも同様だ。
ほんとのことは決して言わない。
それらが蔓延しているから、中味のない内容の無い、関係とも呼べない関係ばかりになるのだ。
そのくせ、自分だけは人と中味のある関係、つながりを持ちたいと、これも「思っている」。
だけだ。
有り得ない。
「本当はね」など全くないのが日常なのだから。
そう思ったのなら、そう欲求するのなら、そうすればよいだけだ。
こんな当たり前の事が少ないのは、思っている自分に甘えているからだし、甘やかしているだけ、そして、そんな友人知人が回りに沢山いるからだ。
思っているだけのことを、口に出し「そうやそうや」で飲み会やお茶会が盛り上がり、お互いに傷口の舐めあいをする。
つまり、それで満足してしまう、納得してしまうのだ。
何もしないのなら欲求を持つな、なのだ。
人はどんな形にしろ、納得すれば新しい行動など起こらないのだ。
疑問や問題を持つから、行動するのだ。
また、感情が高まるから行動するのだ。
「思っているだけ」の人は、ある意味で本を読んだり、人の話を聞くのが好きだ。
納得病にかかっているから、頭を納得させたい、つまり、行動したくないのだ。
他人から良く見られたいのであれば、「良く観られたい」というのはどういうことか、考えてみればよい。
そして、もしも答えを発見出来たのなら、それを行動すれば良いだけだ。
しかし、「良く観られたい」を突き詰めて考えれば、馬鹿らしいことだと発見するはずだ。
同じ頭を納得させるだけでも、そこまで突き詰めての納得ではない。
そこが間違っているのだ。
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