表現されていること
名優と言われた、故宇野重吉さんと笠智衆さんが、共演しているドラマを見た。
宇野さんの顔のアップ。
その時は笠さんの後ろからのシルエット。
笠さんのアップの時は、その逆で宇野さんの後姿。
これは見応えがあった。
二人の芝居の違い。
そこから生まれて来る、リアリティの違い。
じっと観察していると、宇野さんは意識が二重化していた。
つまり、セリフにしろ所作にしろ、表情にしろ、改めて「こうしよう」としてやっているということだ。
だから、お互いに年相応の役柄、つまり、老人なのだが、姿こそ老人なのだが、老人らしさは、「老人らしく」演じられているだけで、老人は見えてこなかった。
むしろ、20歳は若い年齢が見えていた。
何故そうなるのか。
それは、頭を使っているからだ。
目は老人の目ではなく、頭を使っている目なのだ。
だから、20歳は若い輝きを持っていたのだ。
笠さんは、見事に老人だった。
老人そのものが、そこにあった。
意識された演技は見えないのだ。
その分、笠さんの存在感は増す。
その意味で、こういった映像は面白い。
勉強になる。
人が意識を改めて使えばどうなるのか。
そこが良く分かる。
カメラがアップするから、そういった臭さが際立って見えてしまうのだ。
もちろん、これが舞台であれば、身体全体から見えているだろうが。
演劇の何を学び、何を身に付けて来られたのかは、全く門外漢なので知る由もないが、演技をするということと、演技をしたことがどう見えているのかは全く別のことだ。
つまり、何を表現しようとしているのか、に主きがあり、何が表現されたのか、どう表現されているのかには、さほどウエートは置かれていないということだ。
それは、演出家が作品を作る為の演出をしようとしているが、観客からどうみえているのか、という視点での演出が無いのと同じだ。
だから、見ず知らずの人が、ポッと劇場に入って楽しめるものがない。
それを知っている人しか楽しめないものになっているのだ。
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