みんな一緒やで
昨日のスウェーデンの人達は、私の考え方を知りたいと言ってくれていた。
是非英語の本を沢山出して欲しいと。
それは、嬉しい提案だ。
稽古を見ていたら、指示されたことをやっている、あるいは、やろうとしているが、どうもその意識が違うと感じる。
もちろん、人は全部違うから、取り組む意識が違って当然だ。
ましてや、文化の違う国の人だから当たり前だ。
しかし、稽古に取り組む意識が違うというのは、問題である。
意識も含めて稽古だし、だからこそ自分の意識が変化したり、成長したりするからだ。
となると、そこを説明する言葉が必要になる。
思想や哲学には、説明など要らないが、こと具体的に身体を動かす、ということになると、そのことと考え方がどう結びついて、どう身体に還元されているのかを説明してあげる必要がある。
つまり、稽古の土台となるべくモノが、共通認識としてもっていなければ、その上に何も積み上げていくことが出来ないからだ。
稽古の土台ということでは、マルセイユでも話しをした。
それは、様々な神がかり的な技や、逸話などについて質問されたからだ。
そんな時、私達は人間であり、それは地球の上に住み、全人類同等に重力の影響を始めとして、様々な環境から影響を受けている。
そして、人類には60兆程の細胞を持ち、骨格、筋肉の数も、ほぼ変わりはない。
そして、人類の行動は、体験の蓄積から無意識的に行われている。
という共通項が有り、そこからしか何事も考える事が出来ない。
と話す。
その中で、稽古というものが及ぼす影響が、様々な伝説を生んだりする。
その稽古は、全て具体的で時間を必要とし、一足飛びで何かを得ることは出来ない。
と言うと、みんな狐につままれたような顔をしていた。
武道というのは、確かに特殊なジャンルだ。
しかし、だからと言って特殊な稽古法、特殊な手段があるのでも、必要なのでもない。
普通に、いやその意味では、特殊に繊細に丁寧に、積み重ねなければならないものだ。
もちろん、それは、取り組む人が、自分はどこに向かいたいのか、という希望によって決まるものだ。
私は、現代に残された達人の言葉を体現化したいだけだ。
「後来習態の容形を除き、本来清明の恒体に復す」
全てはここから始まっている。
■5月2.3.4日は京都での3回目になるワークショップを開きます。
https://www.hino-budo.com/index.html
「お知らせ」からリンクしています。
■ 9月13,14,15,16,17日、定例の東京でのワークショップが決まりました。
場所も、何時もの新木場マルチスタジオです。
詳細は後日webページで