蜷川さんの「トロイアの女たち」

蜷川幸雄さん演出の「トロイアの女たち」。
そのドキュメンタリーをwowwowでやっていた。
昨年私たちが「マクベス」をやっていた時、隣の大劇場でこの「トロイアの女たち」のリハーサルをやっていたのだ。
全くそのことは知らなかったので、外国の人達や子供達がいたので、何かのオーディションなのかな、と気にも留めていなかった。
まあ、それはさておき、日本人、パレスチナ人、イスラエル人という、日本人を除いて、かなり危険な関係の役者達だ。
そういった政治的背景は別にして、役者達の姿や演技に興味があった。
「違う」
何が?
圧倒的に、日本人の役者は小さく見えて仕方が無い。
声も出ていない。
蜷川さんが「日本人は感情表現がなっていない」と激高した。
感情?そうか?
もちろん、蜷川さんの言葉だから、その裏に何が潜んでいるのかは分からない。
感情?それ以前だろう。
何かちまちましているようにしか見えない。
何をしているのか分からない。
何かを「しようとしている」のだろう。
それが見えてしまう。
その意識だけしか見えてこない。
身体や、声と部分に駄目だしをし、どうしてその本質を直球で指摘しないのか。
「何じゃこれ」ばかりだ。
リハーサル風景で、いわゆる鈴木メソッドをやっているカットがあった。
もしも、鈴木メソッドが優れたものであったら、また優れたものであればあるほど、たった3日や1週間やったところで、一体何になるのか?
単に、全体をまとめる為のワークなら良いが。
そんなことを思った。
以前、フォーサイスカンパニーのヤニスが来日し、舞台を作った。
まるで、その光景を見ているようだった。
格段の差。
それは何だ?
端的に言って、日本の役者は日常生活に現実感がまるで無い、それが根本的原因だ。
そして、「改めて何かをする」という意識が、何故か植え付けられているからだ。
それは、芝居をする、あるいは、ダンスをする、ということが、全く血肉化していない。
全く自分という自分そのものと、芝居やダンスが遊離してしまっているからだ。
最悪だ。
イスラエルやパレスチナの役者が、役者として優れているのかどうかは分からない。
それが分かるカットが無かったからだ。
しかし、そこを抜きにして、一寸したセリフでも、その役者自身から発せられていた。
つまり、「喋ろうとしている」のではなく、喋っていたのだ。
だから当然身体も声も響く。
存在感もある。
どうして蜷川さんは、役者のそこを攻めないのか。
もちろん、蜷川さんに限らず、多くの演出家はそこを攻めないのか不思議でならない。
もしかしたら、作品ということに主きを置き、役者一人一人のそういった姿勢には、関心がないのかもしれない。
そう思わずにはいられなかった。
もちろん、作品を作っているのだから、間違ってはいない。
しかし、個々の役者がもっと、役者であれば相当質の高い作品になる筈なのだが。
主演の白石さんに、「普通そうはしないだろう、自分の子供を地べたに置かれた嫌だろう」と、あるシーンを演出していた。
もちろん、そうだ。
しかし、それ以前に「何だその姿は」になる筈だし、子供を抱き上げようとしなかったのは、芝居が自分の中で途切れているからだろう、だし、部分部分を、部分として捉えているからだろうだし、何よりも芝居全体としての意識が流れていないからだろう、である筈だ。
巷では、そういった根本的な問題を超える事は考えず、身体のあり方や声の出し方、など、枝葉末節のワークが沢山ある。
また、そんな理論を展開する人も沢山いる。
しかし、それをよくよく考えると、役者やダンサーの成長の為に考えているのではなく、単に自分が言葉化したものを披露したいだけのようだ。
言葉の為の言葉、理論の為の理論。
そんなもの、本当の意味で役立つ筈も無い。
根本的に間違っているのだから。
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