3年の違い

昨日は、大阪教室の忘年会。
今までで、一番少ないかも、と引きつった大笑い。
来年はもっと賑やかな忘年会になるようにと乾杯。
二次会は、田中さんの快気祝いと、クリスマスで盛り上がるセントジャームスヘ。
田中さんは何とピアニカで一曲!これがまた良い。
田中さんが歌うホワイトクリスマスまで飛び出し、客席は大盛り上がり!
深夜12時過ぎ、お開き。
私の教室で、ある人は、「3年間続けたから、獲得できた、理解できた」と言った。
ある格闘家は「3年続けたら入口に立てるかもしれない」と稽古を続けた。
何がどう違うのか。
それは何を見たのか、何を体験したのか、何を求めたのか。
そういったところが、まるで違うということだ。
どんなことでもそうだが、一つの技術とした時、それがうっすら分かるのに、数年かかる。
そして、それを使うとなれば、もっと時間が必要だ。
もちろん、技術と言ってもピンキリだ。
こと、身体操作ということで言えば、ラジオ体操的に単に動きを覚えるのなら、さほど時間は掛からないだろう。
しかし、その体操を人に対して使うとなれば話は別だ。
後者の格闘家は、試合で使えなければ価値は無い。
となると、相当の練習量と発見がなければ、それを実現することは出来ない。
しかし、理解するとなれば、言葉だからある意味で簡単だ。
もちろん、理解したところで一切の意味は無い。
それは単に言葉だけだからだ。
その言葉の裏付けとしての実際は、格闘家と同じ質の練習と発見が必要になる。
単純に言えば、大工さんだとして、前者はのこぎりで材木は切れる、ということを知ったということで、後者は、のこぎりでどんな材木でも切れる、ということの違いだ。
むろん、のこぎりで材木は切れる、ということを知ったのは、例えば、杉の角材を切れた、ということであって、その切り口は職人さんの切り口とは全く違う。
当たり前だ。
たった3年の素人なのだから。
後者も、その意味では同じだ。
しかし、入口に立てるかも、と当初の設定がまるで違う。
その違いは、角材を切ることだけではなく、全ての材木を視野に入れているということだし、職人さんの切り口も視野に入れているということだ。
だから、同じ3年でも全く出来上がりは違うのだ。
「入口に立てるかも」と言った、若い格闘家の感性。
素晴らしいではないか。
こんな感性を持った若者が増えれば良いのだが。

Follow me!