からだを操る

ゆっくり。
身体を動かす時、とにかくゆっくりやることを徹底させる。
しかも等速運動だ。
ゆっくりやると、運動線のブレや自分自身の誤魔化しを発見できるからだ。
身体のどこかの部位だけを速くしたり、遅くなったりも見極める事が出来る。
それは「全身運動」が基本的な目的だからだ。
武道の場合、刀を使ったり拳や脚も使う。
刀を使ったとしても、肩から先の腕がやたらと早くなってはいけない。
それは腕の運動だけになってしまうからだ。
そうなると、肝心の切っ先から力は出せない。
もちろん、腕だけの運動になった場合、刀に限らず拳にしろ足先にしろ、力が出る事は無い。
所謂腕力だけだからだ。
しかし、ゆっくり動けば良いというものではない。
腕は肘、足は膝がポイントになる。
胴体はねじれ系か縦系で繋がらないといけないし、背骨が連関して動いていなければ駄目だ。
「身体の使い方」なる言葉を近頃よく見かけるようになった。
本当に身体の使い方が普及するのであれば、多くの人が色々な意味で故障が少なくなったり、身体能力を発揮できるようになる。
これは素晴らしいことだ。
しかし、「身体を使う」といっても、肝心の身体に対する認識は、あくまでも脳でしかない。
つまり、自分を外から見て知っているにすぎないのだ。
鏡を見て「肘はここだ」と言っているということだ。
それは身体を使っているのではなく、意識を使っているだけだ。
決して身体を使っているのではない。
身体が動いているだけなのだ。
この辺りのところが複雑なのだ。
どうして複雑になるのかというと、元から意識以外のところで身体を動かす、という考え方が無かったからだ。
結局のところ、解剖学が機器の発達と共に精緻になっただけなのだ。
力ということに関しても、てこの原理止まりだ。
身体は解剖学で捉えることなど出来る筈も無い。
逆説的に考えて、単に筋肉がどうなっているのか、から生身の人間身体を作り上げることなど出来る筈も無いだろう。

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