イメージトレーニングは
「自分なりに行う」人はそれしか出来ない。
自分が行うのだからだ。
その自分が行う何に気付けば良いのか。
つまり、人を真似る為には、どんな要素が必要なのかということだ。
それは、ひたすら眺めるしかない。
眺める能力に長けている人は、その時間は自動的に短縮されていく。
例えば、ダンサーで振り付けで踊ることに慣れている人は、瞬時に動きを覚えるのと同じだ。
自分の身体に写し取る能力が高いのだ。
それは経験と自分の必然が正比例して能力の高さが決まる。
広い意味での技術職の人は、この能力に長けているだろう。
しかし、そうではない人は、他人の行っている動きや行動を言語化する。
あるいは、行っている動きや行動の中で、自分の印象に残ること、また、自分が好きなことだけを取り出す。
そして、印象に残ることや好きな部分を、自分なりに行う。
この場合の自分なりに行う、というのは、真似るべき本体ではなく、印象に残ったところ、好きなところを、自分の価値観やクセで行うということだ。
人を真似るというのは、究極的にはその人の価値観を身体に、あるいは自分自身に写し取るということに他ならない。
そのことによって、自分自身の幅が広がり感性が高まり、あるいは、自分自身の考え方が深まる、つまり、成長するということだ。
自分の価値観やクセで行っている限り、何の変化も起こらない。
手持ちの動作が一つ増えたに過ぎないのだ。
そういった人達を観察していると、他人のやっていることを観察していない。
もちろん、真似るべき手本も観察していない。
ひたすら、自分の持つ幻想を追い求めている姿がある。
イメージトレーニングは、巷ではどんな意味で使われているのかは知らないが、イメージトレーニングの基本は、対象のものを画像として記憶することだ。
言葉ではなく画像での記憶だ。
それが脳裏に焼きついているから、何度も何度も反芻することが出来、対象のものが身に付いていくのだ。
決して、判断の範疇にあるのではない。
だから、自分なりを超えるためには、とにかく対象のものを写し取るという訓練が必要なのだ。
歌舞伎の家に生まれたら、幼児の頃から舞台ソデから「見る」。
意味もわけも分からず見る。
だから、舞台に立った時にはそれなりに格好が付いているのだ。
あるコンテンポラリーの舞台を観に行った時、アフタートークがあり「舞台に立つのが難しい」なる言葉がダンサーの口から出ていた。
「アホか、その言葉を言うのは100年早い、お前は歌舞伎の人達のように、幼児の頃から舞台の匂いの中で育ったのか?高々5年や10年ダンスをかじっただけで言うな!」
感性すら育っていないのだ。
そのダンサーはダンス歴3年と言っていた。
開いた口が塞がらない。