熱い福岡

7月の福岡ワークショップの詳細が出来ました!
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これは記事にはしないことだが、柳生新陰流への取材では「型」ということを、改めて考えさせられた。
それは「型」そのものが、現実の日常と密接に繋がっていた時代と、現代のように「型」が日常とは直接繋がっていない場合とでは、型に何を求めるのか、型から何を得るのかが変わって来るのではないかということだ。
伝統芸能であっても、時代時代によって何もかもが異なっていく。
その意味で、変わるのが悪い、あるいは間違っているということではない。
変わってしかるべきだということだ。
変化こそが、柳生新陰流の真骨頂だからということではないが。
よく型は楷書と同じだというが、正にその通りだ。
しかし、実際ということになると、楷書だけでは対応できない。
つまり、環境や状況によって即変化を求められるものだ。
それは全てがそうだ。
決まりということと、それを運用するということ。
そこには、計り知れない溝があると思っていなければならない。
予測不能な何かがあると思っていなければならない。
そこを想像出来なければ、型は単純な運動、あるいは、役に立たない決まりごとに終わってしまうのだ。

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