消える文化

先日あるミュージシャンのブログに、「鳴り」や「響き」に関する記述があった。
それはギターに関してのものだ。
彼によると、外国にはその日本の「鳴り」に順ずる言葉が無く、当然そんなことを気にしている者は皆無だということである。
そして、日本人独特の風雅な趣味だと思っておけば良いのでは、と結んでいた。
きっとそうなのだろう。
日本人得々の風雅、というのは傑作な表現だ。
邦楽には「とお音がさす」という言葉がある。
それは私の母が長唄の師匠をしていた関係で、よく耳にした三味線での技術の話だ。
簡潔に言うと、近くで聴くと静かだが、そこから具体的距離として離れてもその音量は変わることなく聞こえるという意味だ。
つまり、1000人の会場での生音で、後ろの人にも聞こえるということだ。
また私の伯父はフリューティストだった。
伯父が何時も話していたのは、「まず楽器の音が鳴らなかったダメ」ということだ。
同じように、遠くで同じ音量で聞こえなければダメだと言っていた。
伯父は、オーレル・ニコレという世界のトップフルート奏者に見込まれ留学を勧められたほどだ。
私自身の体験では、槌野一郎という西のトップドラマーがいた。
ちなみに、東は白木秀雄だ。(共に故人)
その槌野さんから一つだけ教わったのが、やはり音だ。
私の叩く音と、槌野さんの叩く音が全く違ったのだ。
「アキラ君、音が鳴らなかったら話にならないで」
と一言。
私は、その比較を頼りに3年ほどかけて音をものにした。
又ある時、楽器屋が
「このラディックは音が抜けない、ということで、色々なドラマーを渡り歩いたが、結局誰も鳴らせない。アキラくんチャレンジするか」
と、スネアードラムを持って来た。
その楽器も、何年かかかってやっと音が抜けるようになった。
文楽で太棹を弾く人間国宝の鶴澤清治師。
若手と並んで弾く時があるが、国宝の音だけが飛び出している。
若手がしゃかりきになって挑むがどうにもならない。
そういった「鳴り」「響き」は、日本独特の感性かもしれない。
しかし、それで培われた耳は、届いてくる音と、「お前一人で弾いているだけやんけ」という音を確実に聞き分ける。
しかし、そういった楽器を操る妙味も、楽器の進化やPAの進化で全く必要なくなった。
同時に、それを聞き分ける微妙な感性も完全に失われていった。
「鳴り」「響き」それを翻訳する言葉は外国には無いそうだ。
ということは、そんな微妙な感性を持ち合わせてはいないということになる。
私は日本人だから、微妙な感性だけを追求する。
しかし、それも私世代で消えていくのだろう。

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